新連載 障害サバイバル ●第1回 それは静かに始まった〜運動障害、発生  目  次 「あれ? なんで脚上がんないの?」 友人たちの労力を「搾取」しつつ 検査入院  ―「あたし、なんで、ここにいるわけ?」 ★「あれ? なんで脚上がんないの?」  脚の異変にはっきりと気づいたのは、二〇〇五年九月、ある秋晴れの午後のことだった。私は四二歳だった。  当時の私は、科学・技術分野を中心としたライター稼業を表看板としていたが、ライターとして生計を立てつづけるのは困難な状況に陥っていた。私が特に力を注いできたICT(情報・通信)技術分野では、紙媒体の休刊が相次いでいた。「ネットで拾う」こともできる情報のためにお金を払う読者が、激減したからだ。存在感を増してきていたインターネット媒体は、広告収入の確保が難しく、苦戦していた。  ライター稼業で食いつづけることが困難になっていた私は、専門学校などでの非常勤教員業に、外資系半導体メーカーでパートタイムのドキュメントエンジニアの仕事まで掛け持ちしていた。「こんなことが、いつまで続けられるだろうか?」という不安はあった。私だけの問題ではなかった。私と一緒に暮らしていた、当時七歳と六歳の猫たちを、私は終生、養いつづけることができるだろうか?今は元気な猫たちも、高齢期に入れば病気しやすくなる。その時、必要な医療(もちろん全額自己負担)を買ってやることができるだろうか?  不安を感じるたびに、私は仕事を増やした。私が頑張らなきゃ、私が稼がなきゃ。猫たちにとっての「お母さん」は、私しかいないんだから。私が、「お母さん」なんだから。  二〇歳で東京に出てきた私は、二回の事実婚を経験した。私が相手に求めるものは、「話し合いができる」「民主的に家庭運営をできる」「共働きに協力的で、せめて三〇%の家事分担をできる」であった。しかし、相手はなぜかいつも、同居生活を開始するとすぐに話し合いをしない亭主関白と化し、家事分担を求めると、土日は泊まりがけで出かけてしまったりするような男たちだった。二回目の事実婚の相手は、アルコール・向精神薬を乱用し、私のせいであると主張した。私は苦心の末、その男と絶縁し、住まいから出て行ってもらうことに成功した。二〇〇一年のことである。それ以後はずっと、二匹の猫とともに一人暮らしをしていた。  その、秋晴れの午後のことに話を戻す。  私は公園で、バレエの「横のデヴェロッペ」を練習していた。バレエの脚を高く上げる動きの一つであるデヴェロッペは、勢いをつけるのではなく、膝を折った状態で空中にある脚を筋力によってゆっくりと開き、ついで高く上げていく技術だ。  当時の私は、四〇歳になる少し前に始めたバレエに熱中していた。私は多忙で、バレエのレッスンには週に一回しか参加できなかった。でも、走る機会があれば、バレエの「グラン・ジュテ(大ジャンプ)」の連続。霞ヶ関から赤坂見附までの約一qを、グラン・ジュテで走り(跳び?)通したこともある。電車の中では、どれほど席がガラガラでも座らない。立ってバレエの何かを練習するためであった。踊ったら周囲に迷惑がかかるけれども、「第二ポジションのルルベ(爪先立ち)を三分間キープする」程度であれば、誰も迷惑しない。中年バレエ馬鹿であった。  その日の私の右脚は、膝から下が地面に対して垂直になったところで、「あれ?」と違和感を感じた。どうしても、それ以上に膝を伸ばすことができないのである。前日はもちろん、いつものように  その後の私は、「いつものように身体が動く」ということの大きな意味を、イヤというほど思い知ることになるのだが  膝を開き、さらに垂直に対して一三五度の角度にまで脚を上げることができた。なのに、その日に限って、なぜできないのか? 思い当たる節はまったくなかった。前日はできたのに?  私はデヴェロッペを断念し、勢いをつけて脚を上げてみた。いつものとおり、垂直に対して一四〇度まで上げることができた。前に上げてみた。顔を少しまえに傾けたら、額を脚につけることができた。「いつもの」私の身体だった。  翌日も、公園でバレエの技術のいくつかを練習してみた。デヴェロッペは問題なくできた。  「昨日のアレは何だったんだろう?」 と思ったが、気にしないことにした。今日はできてるし。  しかしこの頃から、歩いていて突然バランスを崩して転んだり転びかけたりすることが続いた。私は折りたたみ式の一本杖を携行し、不安を感じたら使うようにした。私にとっては、登山でストックを使うのと同程度に自然な選択だった。しかし不思議なことに、なぜ転びやすくなったのかは、まったく気にしていなかった。  二〇〇五年の一〇月には  「昨日できていた何かができない」 が頻発するようになっていた。それでも私は、週に一度のバレエのレッスンを続けることができていた。転倒しても、フロアの上だ。地面ではないから安心、歩行は、一本杖を使って行っていた。  二〇〇五年一一月になると、歩行を連続させることが困難になった。私は松葉杖を使用するようになった。もちろん、非常勤講師業も含めて、仕事はそれまで同様に続けていた。そして中年バレエ馬鹿の私は、その状態でもバレエのレッスンに参加し、バーレッスン(バランスを維持するためのバーを使用するレッスン)の全部とセンターレッスン(バランスを維持するためのバーを使用せず、フロアで行うレッスン)の一部をこなしていたのである。馬鹿はどうしようもない。  その間にも、心配なことがあった。二〇〇五年一二月には、幕張メッセで「セミコンショー」が開催される。半導体の材料と製造にかかわる、ありとあらゆる資材・装置の展示会である。半導体分野もカバーしているライターにとっては、参加しておかなくてはならない重要なイベントだ。でも、海浜幕張駅から幕張メッセに、どうやって到達すればよいのだろう? あの広大な幕張メッセの中を、どうやって動き回ればよいのだろう?  当時、私の住まいの近所に住んでいた若い友人(当時二四歳)のナオヤ(仮名)が、社協(社会福祉協議会)に問い合わせを行ってくれた。ナオヤは二〇歳前後の時期には、すでに将来を嘱望されるライターであり、果敢な取材活動と取材力を高く評価されていた。当時のナオヤは、さまざまな事情からライター活動を停止していたのだが、その職業能力の一部を私のために使ってくれたのだった。  「何か異常が発生しており、日常生活に支障が発生しているのだが、病院にまだ行っておらず、未だ障害者でもない」 という場面で利用できる支援は、現在も「まったく」といってよいほど存在しない。もちろん、当時もそうだった。利用できた唯一の支援は、  「民生委員さんをつうじて、手動車椅子を借りる」 であった。これは、全国の多くの社協で行われているサービスである。車椅子は、無料で借りることができるのだが、期間は基本的に一か月が限度だ。  ★友人たちの労力を「搾取」しつつ  二〇〇五年一二月の「セミコンショー」は、ナオヤに車椅子を押してもらっての参加となった。半導体製造にかかわる最先端技術の展示会場を、ナオヤと私は  「みわさん、半導体って何なんですか?」  「うわあ、本質的な質問だなあ……ちょっと待って、わかってくれるように説明を考えるから」 などと楽しく会話しつつ、心ゆくまで動き回った。ナオヤは、ふだんまったく馴染みのない分野の刺激を受けることができたようだった。私は、ナオヤの関心にも付き合ううちに、思いもよらぬ情報や知見を得ることができた。今でもはっきりと記憶しているのは、イスラエルが国として出店していたブースで、  「我が国では優れた科学技術開発を行っております」 というアピールをしており、その内容が  「我が国の技術の優秀さは、特に軍事用途で証明されております」 というものであったことだ。パレスチナ取材の経験もあったナオヤと私は、そのブースを離れた後、  「僕、さっき、背筋が寒くなりましたよ。あいつらに殺されるかも、って」  「本当かもしれないけど、日本で堂々とアピールすることじゃないよねえ?」 といった会話をした。  その夕方、ナオヤと私は、海浜幕張駅前の「サイゼリヤ」で食事をした。ナオヤの交通費も食事代も、もちろん私の「おごり」である。日当を支払うべきところなのだが、そこまでの余裕はなかった。私は、自分の歩行困難な状態が長く続くとは考えていなかった。まさか、二〇一三年現在も車椅子に乗っているであろうとは、まったく考えていなかったのである。当時の私が自分の身体の状態について考えていたことは  「何をすれば、いつになったら、半年前のようにバレエができるのだろうか?」 だけ、であった。温泉で何日か、のほほんと過ごせばいいのだろうか? プールで水泳すればよいのだろうか? はり・きゅう・マッサージでも受ければいいのだろうか?  とにもかくにも、セミコンショーは無事切り抜けた。私は、社協に借りた車椅子を運転して、住まいから五〇〇mほど離れた民生委員さんのお宅に行き、車椅子を返却してきた。帰りは、松葉杖だった。  二〇〇六年一月になると、私の運動能力は、さらに劣化していた。床面から立ち上がること、しゃがんだ姿勢から立ち上がることが困難になった。このことは、日常生活に大きな影響を及ぼした。私の住まいには和式トイレしかなかったからだ。また、立位の維持も困難になっていた。長距離の移動は、車椅子で行うしかなかった。私は腹をくくり、正月休みの間に、中古介護用品店で手動車椅子を購入した。一万四千円ほどだったと記憶している。  私は、当時受け持っていた週に二回・合計八コマの専門学校での授業のため、ナオヤをはじめとする友人たちの支援を要請した。友人たちは予定を調整して、専門学校への送り迎えを行ってくれた。無事に、後期授業を全部終了させ、試験も終了した。その学科は新規募集を停止する予定だったので、私が翌年度、そこで勤務する予定はなくなった。私は安堵した。「バリアフリー」にほど遠い学舎での勤務は、私自身にとっても負荷が大きすぎたからだ。しかしそれは、一か月に一〇万円以上の収入を失うことを意味していた。  「どうやって、減収を補おうか」 と考えている私に、さらなる追い打ちがかかった。パートタイムのドキュメントエンジニアとして勤務していた外資系半導体企業が、移転することになったのだが、移転先のビルはまったくバリアフリーではなく、周囲の道路も、車椅子にはまったく優しくない造りだったのだ。業務内容が高いレベルの「企業秘密」を含んでいたため、インターネットなどをフル活用したスタイルで業務を遂行することは困難だった。当時はまだ、インターネットの利用そのものが大きなリスクと考えられていた。現在もインターネットには数多くのリスクがつきものだが、当時は、リスクに対応する技術やツールが不完全であったり、あっても高価すぎたりした。仕事先の人々は、なんとか私が在宅勤務できないかと業務の形態や方法を検討してくれたりしたが、それほど余裕のない会社に負荷をかけるのは申し訳なく、こちらから辞退した。少なく見積もっても、一か月に五万円程度の減収となった。  考えているだけで、胃が痛くなった。私は、病院の内科を受診した。病院に行くにあたっては、またナオヤに車椅子を押してもらった。現在も「病院に行ったら病気になる」と公言してはばからないほど病院と医者が大嫌いな私は、胃痛が我慢できなくなるまで、病院に行かなかったのだった。肢体不自由は不便ではあるけれども、特に苦痛ではなかったので、「病院に行かなくちゃ」という気持ちにはなれなかった。それに毎日、とにもかくにも終わらせなくてはならない仕事が、いつも、目の前に山盛りだった。  内科医は、車椅子に乗って入ってきた私を見て、目を丸くした。私は  「どうしましたか?」 という質問に  「胃が痛いんですが」 と答えた。医師はさらに  「なぜ車椅子に乗っているんですか?」 と質問した。私は  「昨年一一月から歩行が困難になって、一二月からは車椅子を利用することが増えています」 と答えた。医師はさらに目を丸くして、息を飲んだ。そして、おもむろに  「あなた、それが病気かもしれないって自覚はないんですか?」 と言った。  私は、別の病院の神経内科に、検査入院をすることになった。その病院には神経内科がなかったからだ。 ★検査入院  ―「あたし、なんで、ここにいるわけ?」  二〇〇六年二月、私は「カンオケ病院」(仮名)の神経内科に、二週間の検査入院をすることになった。二匹の猫たちは、住まいに残していくしかなかった。猫たちの世話は、ナオヤが一日一回通ってきて、やってくれた。  毎日のスケジュールに、検査予定が次々に入っていったが、「検査漬け」というほどではなかった。時間のかかる検査・ダメージの大きな検査が多く、一日にいくつもの検査を行うことが不可能だったからだ。  この時に行った検査のうち、現在も記憶しているのは ・血液検査・尿検査 ・CTスキャン ・MRI ・髄液検査 ・筋電図検査 ・脳波検査 ・反射テスト のみであるが、他にもあったかもしれない。後半は、一日に三〇分程度のリハビリも加わった。  私は過去にも、胃炎・胃潰瘍・胆石症などで、内科・外科に入院したことがあった。ごく普通の病院で、浮世離れした生活を「たまには、こんなのも、まあいいか」と考えつつ楽しむ余地もある入院生活だった。しかし、この時の入院生活は、それまでのどの入院経験とも異なっていた。  二次救急機関であるカンオケ病院は、近隣地域では  「重い病気を持っていたり、死にそうな状態になっている人が行くところ」 と認識されている。私はそういう病院に入院したのであった。  病室は、四人部屋であった。それは私にとっては、特に問題ではなかった。なにしろ私は、今でも海外取材では「ドミトリー」を愛用している。それなりの社会性がある人との共同生活には慣れているし、特に苦痛を感じることもない。しかし、カンオケ病院では、ベッドとベッドの間のカーテンを閉めない習慣なのだ。これは私にとっては耐え難いことであった。起き上がればすぐに、他の入院患者の顔が目に入る。それだけではない。見舞い客に覗きこまれたり、話しかけられたりする。カーテンさえ閉めればすむことだ。  私はなるべく、カーテンを閉めておくようにした。掃除などで誰かが入室してカーテンを開けるたびに、「閉めてください」とお願いした。一日に何度も、「閉めてください」とお願いしなくてはならなかった。  カンオケ病院では、なぜ、患者のプライバシーをカーテン一枚で守ることさえしていなかったのか。医療スタッフの人手不足を、患者の目や手で補っていたのである。  同室に、八〇歳くらいの女性がいた。私が入院する前から入院していたようだ。呼吸器をつけ、いつも上体を起こされた状態だった。自分の意志で身体を動かすことは、まったくできなかった。呼吸器には、しばしば痰が詰まった。一時間に二〜三回は、呼吸器に痰が詰まり、切ない音を立てていた。同室で、自分の望む時にナースコールをする肉体能力をもっていたのは、私一人だった。気づき次第、私はナースコールをして、看護師さんを呼んだ。痰詰まりをそのままにしておけば、その女性は死んでしまうからだ。  私の入院中に、最悪の事態が起こった。痰詰まりが長時間になり、女性は心停止してしまったのだ。蘇生措置が行われ、心臓は再び動きはじめた。その後、女性のベッドは、ナースステーションの中に移された。夜も蛍光灯が煌々としているナースステーションの中だ。居心地が良さそうには見えなかった。  でも、私はほっとした。それまでの私自身は、入院以来、夜、安眠することもできなかったからだ。適切なタイミングで痰詰まりに気がつけるかどうか。痰詰まりの音で目を覚ましてナースコールができるか。そんなことを考えていると、熟睡することもできなかった。もしも私が気づかなかった結果、女性が亡くなったとしても、誰も私に責任を問わないだろう。でも、平気ではいられない。しかし、何ができるわけでもない。私は、自分が内心、自分に責任を問うてしまう状況から解放されて、ほっとした。  呼吸器の女性が、一応は看護スタッフの目の届く場所に移ったあとも、私は安眠できるわけではなかった。深夜二〜三回、看護師がやってきて運動テストを行った。足の上げ下げがどのくらいできるか、足を上げた状態でどの程度キープできるかを見るテストである。看護師は、「脚を上げてください」「もっと上げてください」と指示したり、足を持ち上げては落としたりした。この運動テストは昼間にも行っていたので、深夜にわざわざ行うのは、昼夜の差、意識のある状態とない状態での差を見ようとしているのだと思われた。  「ひょっとして、いや、ひょっとしなくても、私は詐病を疑われているの、かな?」  そもそも熟睡していなかった私は、運動テストのたびにはっきり目を覚ましてしまっていた。連続して五時間、起こされずに眠りたい。それよりも、何かを疑われているらしい今の状況が、情けない。私は運動障害で困っている。その原因を知りたくて、ここにいる。困っているからやってきた場所で、さらに情けない思いをしなくてはならない。なぜだ?  看護師が運動テストを行って去っていくと、私は黙って涙を流した。  「あたし、なんで、ここにいるわけ?」 という気持ちがぬぐえなかった。私は自分の意志で入院したことになっている。病院に電話したのも、入院の書類にサインしたのも、預り金を工面したのも私だ。それは私が、運動障害の原因が判明すること・治療が受けられること・必要な補装具などの公費負担を得られることを期待していたからだ。私はそれまで、さまざまな障壁はあったけれども、自分の思いに沿って、自分の意志と努力で切り開いていく人生を可能なかぎり続けてきたつもりだった。今後もそうしたいと思っていた。だから、期待をもって入院した。だけど病院で私がされていることは、その期待に応えてくれるものなのだろうか?  それから私は、住まいで留守番をしている二匹の猫のことを思い浮かべた。猫たちはきっと、暖房もない住まいのベッドの上、私の布団の中で、仲良く寄り添って眠っているだろう。六歳の弟猫が不安を感じたら、七歳のお姉ちゃん猫が抱きしめて舐めてやってくれるだろう。いつも、そうだから。なぜ、そこに私もいないのだろうか? 私はなぜ、ここに一人でいるのだろうか?  それから、入院費用のことも気になった。自己負担額は、高額療養費自己負担限度額以上にはならないだろう。でも、今はまったく稼げていない。それに、今後の収入の目処も立っていない。今の状況では、高額療養費の自己負担額だって重たい。  ナオヤは毎日のように、病院にやってきては、猫たちの様子を話してくれたり、こまごました買い物をしてくれたりした。男性のナオヤには頼めないことも多かった。たとえば、パンティや生理用品の買い物を頼むわけにはいかない。でも、気持ちが嬉しかった。ナオヤには、長期入院の経験も、ひきこもりの経験もある。ナオヤは、社会から自分が切り離されたと感じている時に、人がどれだけ孤立感を味わうのかを知っていたので、毎日のように顔を見せてくれたのかもしれない。  ナオヤ以外の友人も、私との接触を絶やさないでいてくれた。  多忙な企業経営者のマサミは、スポーツカーで病院を訪れた。私は、おそらくは生まれつきに近い精神疾患とも長年付き合ってきた。二八歳ごろからは、定期的な精神科への通院が欠かせない習慣だ。その入院期間中にも、通院の予定があった。入院している私の様子を心配し、メールで様子を訊ねてくれたマサミに「明後日、精神科に通院するんだけど」と返信すると、「じゃ、私、送迎するから」という返事があった。そして、その日の精神科通院は、スポーツカーでのドライブとなった。マサミと私は、車の中でおしゃべりを楽しみ、青梅街道の冬枯れの並木道と夕焼けに歓声をあげた。  長年お付き合いいただいている技術系出版社の編集者・ミキさんは、予備取材のため、病院から車椅子で外出して研究会に出現した私に、「病院まで付きあわせてください」と申し出てくださった。そのころの私は、車椅子にかなり慣れており、病院から駅・駅から近辺までの移動くらいは、なんとかこなせるようになっていた。ミキさんの申し出に「申し訳ないですよ」と答えた私に、ミキさんは「体力は原稿を書くために取っておいてください」とニッコリ答えた。まだ私の仕事が期待されている。そのことが、私をどれだけ励ましてくれたかは、表現のしようがない。私は、ミキさんに車椅子を押してもらって病院に戻った。  そして私は、二〇〇七年三月に四七歳で亡くなった友人のマサシに、限りない感謝を捧げたい。名古屋に在住し、内臓疾患を抱えつつも経営者として年度末の作業のあれこれに追われていたマサシには、東京の病院を訪れる機会はなかった。しかし、電話で  「あたしさあ、こないだから歩けなくなってるじゃん? それで、検査入院することになってさあ」 と語る私に、彼はすぐ  「お金、大丈夫? なんかあったら、すぐに言って。できる範囲でだけど、送るから」 と言ってくれたのだ。彼に送金を受けることは結局は一度もなかったけれど、その申し出が、どれほど心強かったか。  検査結果は、私にとってはまったく意外なものであった。運動に関して「膝蓋腱反射がない」という問題があったことを除いて、異常といえる異常はなかった。検査で明らかになった異常は、五歳の時、初めての鉄棒の「前回り」で失敗して転落した時のものと思われる、頸のごく軽度の脱臼であった。  医師は  「まずは、よかったじゃないですか」 と言い、ついで  「異常な信号が、半年とか一年とかして出てくることもありますから」 と補足した。異常がなくてよかったのか? 将来、異常が出てきたら、それでよかったことになるのか? なんとも釈然としないモヤモヤ感を抱えつつ、運動障害については何の改善も見ていない身体で、私は退院した。  この時期、相変わらず手動車椅子を利用していたわけだが、長い距離の運転は無理だった。電動車椅子の価格をWebで検索してみたところ、中古でも一五万円程度が底値だった。現在の調子で、補装具を自費負担しつづけ、友人たちの労力を搾取しつづけるわけにはいかない。補装具やヘルパー派遣といったモノ・コトにかかわる公的支援が、私には必要だ。それは、わかっていた。  でも、入院中の経験や医師・看護師などの態度をつうじて、なんとなく、  「自分は、障害者福祉について口にしてはいけないのではないか」 と感じていた。口にしなかったら、現在と同じように困りつづけるだけだ。でも、口にすれば、「やっぱり障害者福祉目的での詐病」ということにされてしまいそうだ。だから、障害者手帳についても、障害者福祉についても、何も言わずに退院した。  私は、二週間ぶりに猫たちと再会した。猫たちは、大いに喜んでくれた。先のことは考えまい。布団の中で猫たちを右腕と左腕に抱き、眠りにつくことにした。  「私は、なんだか、とんでもないものと闘わなくてはならない状況に陥ったらしい」 という自覚はあった。  考えてもしかたない。七歳のお姉ちゃん猫を抱きしめた。喜んで喉を慣らす猫を撫でているうちに、眠りに落ちた。  翌日、私は、一通のメールを受け取った。  「五月、ある会社の新人向け技術研修を、二週間、受託してほしい」 という内容だった。予定されていた報酬の金額は、約二〇万円であった。即座に「OK」と返事した。そして、  「稼ぐに追いつく貧乏はなし、お金のことはなんとかなるだろう」 と胸を撫で下ろした。  半年後の自分が、福祉事務所で生活保護の申請を勧められるほど困窮しているとは、想像もせずに。 ●第2回 「拉致」作戦との闘い 〜障害を持ったら、すべてを諦めなくてはならない?   目  次 「研究に戻る」という夢に支えられて 科学・技術を伝える仕事に就ける……かな? まるで「拉致」するかのように 「あのう、助けてくれませんか?」 追っ手をふりほどいて ★「研究に戻る」という夢に支えられて  二〇〇六年二月。  二〇〇五年秋から発生した運動障害の原因を調べるため、カンオケ病院(仮名)に約二週間の検査入院をしていた私は、原因らしい原因が判明していないまま退院し、七歳と六歳だった二匹の猫たちが待つ住まいへと戻った。その後しばらくの私は、運動障害のある身体に馴染み、一時的に、車椅子ではなく松葉杖を用いて、かなりの距離を歩行できる状態となっていた。訓練すれば、また以前のように歩いたり走ったり、バレエのレッスンに参加したりできるだろう。そういう希望を持っていた。  当時四三歳だった私は、その数か月前まで、持ち前の体力と肉体能力を活かし、著述業以外にも専門学校の非常勤講師などさまざまな仕事に従事し、二匹の猫たちとの生活を支えていた。ところが、それらの仕事は、運動障害とともに継続が困難になった。  私は、一か月平均一一万円程度の定期的収入を失うことになった。心のどこかで、  「これは、『もう、著述業以外の仕事に浮気をするな』という天の声なんだろうか?」 という思いもあったのだが、とにもかくにも最大の問題は、間もなく我が一家を襲うであろう、「危機」といってよいレベルの経済的困難だった。  当時の私は、著述業を表看板とはしていたが、連載は一本も抱えていなかった。二〇〇一年から二〇〇二年ごろの私は、まだ、「Linuxバブル」の恩恵を受けていた。現在もフリーで配布され、開発が続いている高性能OS「Linux(リナックス)」に、私は開発が始まった一九九一年より注目しており、一九九四年からは自分で使用していた。その後、「バブル」と呼ぶのがふさわしいLinuxブームが訪れた。私はLinuxに関する記事多数、著書一冊を執筆した。それだけではなく、社会人向け技術教育で、一日あたり一〇万円以上の報酬を容易に得ることができたのである。当時の技術系雑誌のページ単価は、私の経験した最高が一万八千円、最低が六千円、平均すれば一万二千円程度であった。プロのライターとしても原稿を書くスピードが非常に速い私ではあるが、原稿を執筆することで一日一〇万円を稼ぐのは難しい。図表の用意や校正を含めれば、一日あたり二万円が精一杯というところだ。どうしても、私の仕事は、著述よりも社会人教育にシフトしがちであった。その社会人教育で収入を得ることができなくなる。これを「危機」と呼ばずに何と呼ぼう。なお、これは当時の技術誌の原稿料水準を前提としての話で、現在はさらに状況が悪化している。  余談だが、最近、科学・技術系のメディア関係者が集まると、しばしば「二〇代の若い書き手がいない、育たない」という話題で、暗い会話が交わされる。当時の出版業界には、「最初は安い仕事しかないけど、数をこなせば食べていける。修行しながら成長して、ネームバリューのある書き手に育っていったり、出版業界で自分に適した仕事を見つけて就けるようになる」という、業界全体での人材育成システムに近いものがあった。完全な実力主義に近いシビアな世界ではあるけれども、生き残るためにすべきことはシンプルだ。小さくても、ヒットを飛ばし続ければよいのである。いつも小さなヒットを飛ばし続けることができれば、ホームランが打てるかもしれない。小さなヒットを飛ばし続けていられる間は、飢えはしない。多くのライター志望者に対して、入り口がそのように開かれていた時期は、いつごろまでだっただろうか。技術系媒体の世界では、二〇〇三年以前のことだったと思う。それから、すでに約一〇年が経過している。二〇代の書き手が、いなくなってしまうはずである。 ★科学・技術を伝える仕事に就ける……かな?  とにもかくにも、運動が不自由になっていく身体で自分にできそうなことは、著述業しか思い浮かばなかった。出版業界の構造的不況の影響を受け、業界自体が危機的な状況にある中で。健常者にとっても、出版業界で生き残り続けるのは容易ではない。健常者にとっても難しいことを、未だ障害者手帳は取得できていないものの、健常ではなくなっている自分、もし、現在の運動障害が解消したとしても、遠からず老いゆく自分にできるだろうか? 私は、「自分には、とても無理」と思った。でも、他にやっていける可能性のある仕事はあるだろうか?   私は、ときどきチェックしていた研究者向け求人サイト「JREC‐IN」で、障害者向け求人を探してみた。もともと、大学院修士課程を修了した後、企業の研究者として半導体に関する研究に一〇年間従事していた私は、研究の世界に未練たらたらだったのだ。数は少ないものの、障害者向け求人はあった。研究機関の求人ではあるものの、仕事の内容は「WordやExcelを使った事務作業」といったもので、研究に特に関係はなさそうだ。身分は非正規雇用、待遇も決して良くはない。そういう職種に就くのであれば、研究機関であることにこだわる必要は、まったくない。  私は、「JREC‐IN」にあった健常者向け求人の中から、自分にできそうな仕事はないかと探してみた。もともとは物理系の実験屋だった私だが、現在の身体で、実験室に入って実験を行うことは困難だろう。いわゆる「座業」から仕事を選ぶしかないのだが、コンピュータのプログラミングを主とする仕事は、すでに四〇代を過ぎている私には、就けても継続が困難だろう。ライターとしての経験とスキルを生かせる仕事はないだろうか?   当時は、「科学コミュニケーター」と呼ばれる職種が、日本科学未来館などの先端的な科学館を中心に、少しずつ認知されつつある時期だった。  現在は、多くの大学・研究機関に、研究内容をわかりやすく市民や報道機関に伝えることを職務とする科学コミュニケーターたちが在職している。処遇はさまざまだが、教員・研究者と同等の価値が認められている場合もある。私は、「この職務に就ければ」と思った。科学や技術を伝えてきた自分のこれまでを、これからも発展させ続けていきたい。私の学歴や職歴は、当時の科学コミュニケーターの求人条件に、概ね合致するものであった。問題は、私の運動障害だった。単に運動障害があるということに留まらず、状態が安定していない。原因がわかっていない。今後どうなるかがわからない。それは「誰しも病気になる可能性はある」ということと同じことであろうとは思うけれども、採用を検討する側は、そんなふうには考えないだろう。そういうマイナス要因があってなお、自分が通常の健常なスタッフと同様に価値を認められて成果を出すにはどうすればよいか。「健常なスタッフと同等の学歴や職歴、しかも女性」では、とても無理だろう。私は、「今からでも、博士号を取れないだろうか?」という思いを抱きはじめた。以前、勤務していた会社を去ってから、中断したままの研究への思いが、胸の中でふつふつと音を立てているような気がした。  収入の目処も立たず、運動障害による困難にただただ困り果てていた当時の私を、辛うじて支えていたのは、「いつか研究の世界に戻る」という夢だった。  そんな二〇〇六年三月初め、出身地である福岡県に住む父親から連絡があった。現八一歳の現在、未だ現役で産業カウンセラーの仕事を続けている父親は、当時は現在よりもさらに元気な七三歳であった。「仕事で上京する用事があるので会いたい」ということだった。私は、運動障害が発生して悪化し続けている現状と、日常生活は近所に住むナオヤ(仮名)など友人たちの援助によって猫たちともども何とか営めていることを伝えた。さらに、運動障害によって仕事の方向性を大きく切り替えなくてはならないという問題に直面してはいるけれども、そこを乗り切ればなんとかなりそうだという見通しを伝えた。父親は、「とにかく会おう」の一点張りだった。  私は気が進まなかったけれども、会うことにした。 ★まるで「拉致」するかのように  父親は、私の主治医に会いたいという。当時の私には、身体の問題に関する「かかりつけ医」がいない状態だった。運動障害に関して検査入院したばかりの「カンオケ病院」は、「胃が痛い」「気管支炎を起こした」といった問題で気楽にかかれる雰囲気の病院ではなかった。病気の時くらいは穏やかに心身を休められる場にいたいと誰でも思うだろう。しかし、カンオケ病院の病棟は、精神的に非常にストレスを感じる場であった。私は、カンオケ病院を「かかりつけ」にしたいとは思わなかった。  では、誰が私の主治医なのか。精神科の主治医ならいる。私は、二〇〇〇年から通院している精神科クリニックに、父親を同伴することにした。他に主治医と言える存在はいないからである。  二〇〇六年三月のその日、スノッブな街にある精神科クリニックの待合室で、父親が非常に不自然に緊張していたのを覚えている。私が精神疾患のため精神科へと通院し始めたのは、一九九一年のことである。二〇〇六年当時の私は、幼少期に原家族で主に母親からの虐待を受けていたことに起因する難治性のうつ病と診断されており、その診断を前提とした治療を受けていた(その後、生まれつきに近い統合失調症であったことが判明した)。その時期も、さまざまな精神症状は消えていなかったものの、職業生活の継続が可能な状況を年単位で維持できていた。診察室で、これから重大な宣告を受ける可能性は何もないのに、父親はなぜそんなに緊張するのだろうか?  そうこうするうちに、私の診察の順番が回ってきた。父親は私と一緒に入ってきた。そして、主治医のナガタ医師(仮名)に挨拶をすると、いきなり  「いろんな人に世話になるわけにもいかないので、ヨシコを福岡に連れて帰ろうと思っているんですが」 と切り出した。  私は精一杯、当惑と怒りを表情に浮かべて父親を見た。それから、ナガタ医師を見た。ナガタ医師は何も言おうとしなかった。私が母親に何をされていたかを知っているはずなのに。私は、  「その福岡には母親がいます。私は、辛いことがたくさんあった場所に戻るのはイヤです」 と話した。ナガタ医師は  「まあ、そんなに急に結論を出せることでもないから、よく話し合って」 と私をなだめた。話し合って? 私の意志を確認することもなく、医師の前で一方的に、まるで物体をどこかに動かすように「連れて帰る」と言う父親と、どういう話し合いが可能だというのだろうか?  最近の生活や状況に関する聞き取りが、ナガタ医師からいつものように行われた後、いつものように処方が行われた。調剤薬局で薬を受け取ったあと、父親は私を食事に誘った。  父親は、なんだかホッとしたような表情を浮かべていた。そして私に、私を福岡に連れ帰った後の生活について話し始めた。私がどこにどのように住むか、どのような仕事をするか、父親はもう決めてしまっていたらしい。異を唱えたところで、耳を傾けるような相手ではない。私は、目の前の少しゼイタクなイタリア料理を口にし、父親が注文した少しゼイタクなワインを口にした。味は覚えていない。なぜか上機嫌な父親を目の前に、刺激しないように適当に相槌を打ちながら、私は  「どうすれば、これまでと同じように、自分の住みたいところに住んで、これまでと同じように仕事を続けて発展させていけるだろうか?」 と考え続けていた。とにもかくにも、四月には、東京での社会人教育の仕事が決まっている。だから、それまでは福岡に帰るわけにはいかない。なんとか、四月まで逃げ切って、その後も福岡に引きずり戻されないようにできないだろうか? 私を虐待した母親の味方である父親の言いなりにされて、母親の近くに引き戻されるような屈辱に甘んじるくらいなら、私は猫たちを誰か信頼できる人に託して死ぬ。でも、できれば、猫たちと一緒に、生き続けたい。 ★「あのう、助けてくれませんか?」  松葉杖をついて帰宅した私は、猫たちに夕食を与えるとすぐに、パソコンに向かって検索を始めた。  もともと社会学に関心があり、東大で上野千鶴子教授(当時)のゼミに参加させてもらったりしていた時期もある私は、社会学全般への関心、特に自分自身の問題でもあるジェンダー問題への関心から、障害者問題についての書籍も少しは読んでいた。数としてはマジョリティでありながら政治的にはマイノリティという女性の立場と、数としても政治的にもマイノリティである障害者の立場は、多くの共通点と相違点を持っている。だから、中西正司氏という障害者運動家の存在は知っていた。さらに、障害者自立生活運動について、それが何であったかも一応は知っていた。これらの「知っていた」がいかに浅薄なものであったか、私はその後、イヤというほど思い知ることになるのだが、一般市民としては障害者問題に詳しい方だったことは間違いないだろう。しかし、自分の現在抱えている問題については、どこに相談すればいいのか。中西正司氏の書籍に出ていた「DPI日本会議」「ヒューマンケア協会」などの団体のホームページを見てみた。たぶん、障害者手帳を持っていない精神疾患持ちが家族関係について相談してもよかったのだろうが、  「精神疾患を持っているだけの、公的には健常者である人間が、家族との問題で悩んだ時に相談してよい機関なのか?」 という疑問を持った。  私は、精神疾患を持っている人間に対する相談窓口を探した。精神障害者手帳を取得しているかどうかと関係なく相談を受け付けてくれそうな相談窓口を。そして私は、「全国『非正気』集団(仮名)」という、いかにも過激そうな名称の団体のホームページにたどりついた。そこしか見つからなかった。  翌日、電話相談の受付時間を待って、私は電話をかけた。電話の向こうから、  「もしもし?」 という女性の声がした。強い感じの口調だった。「優しく話を聞いてくれる相談窓口」という感じではなかった。私は  「そんな下らないことで相談して、と責められたらどうしよう」 と心配しながら、やっとのことで  「あ、あのう、た、助けてくれませんか?」 と口にした。自分の口から出たその言葉に、自分で驚いた。  電話の向こうの女性は  「助けてくださいって、どうしたんですか? あなた、今、病院の中なんですか? 入院してるんですか?」 と、私に質問した。私は、東京の借家で一人暮らしをしていること、精神疾患を持っていて長年通院中であること、著述業で細々と仕事を続けていること、身体が不自由になってきたので失った仕事がたくさんあって経済状況が厳しいことなどを話した。女性は、  「経済的な問題だったら、生活保護があるから生きていけますよ」 と答えた。私は、  「親に、出身地の福岡に連れ戻されそうなんです! 助けて下さい」 と絶叫した。女性は慣れた様子で  「あなた、帰りたくないんでしょう? だったら、帰らなくていいんです。あなたがどこに住むかは、あなたが決めるんです」 と答えた。私は、  「はい、わかってます」 と答えた。その後、何を話したかは覚えていない。ただ、少しだけ安堵して、猫たちと一緒に眠りについた。 ★追っ手をふりほどいて  二週間後、私はまた精神科クリニックで、ナガタ医師の診察を受けた。ナガタ医師のもとには、父親からの分厚い手紙があった。父親はその手紙で、切々と、親として娘を思う気持ちを述べ、一人暮らしをさせておくのが心配だから福岡に連れ戻したいという希望を述べていたようだった。  ナガタ医師は、  「立派なお父さんじゃないの。福岡に帰ったらいいんじゃないの?」 と私に言った。つまり、手を回されてしまったということである。当時、六〇代後半だった男性のナガタ医師は、患者である私に対する以上に、私の父親に大きなシンパシーを感じてしまったのかもしれない。私から見れば、 「だから何なんだよ! 立派なお父さんだったら、それが何なんだよ!」ではあったのだが。  私は、全身が怒りと恐怖で震えるのを抑えて、精神科クリニックを出た。そして、クリニック近くの公園のベンチに座り、「全国『非正気』集団」の相談窓口に電話した。前回と同じ女性が出た。私はその時、何をどのように話したか覚えていない。絶叫し、泣きながら、何が起こったのかを必死で話した記憶しかない。  帰宅するとすぐ、出版社の雑誌編集者からメールが届いていた。五月発行の季刊誌の特集を書いてくれないかという打診である。締め切りは四月である。タイトなスケジュールだが、受けないでいられようか。経済力がなければ、父親から自由になることはできないではないか。ページ単価がそれほど高くない技術誌の仕事ではあるが、特集である。約四〇ページに及ぶ分量である。つまり、まとまった収入が得られるということだ。同じ月に、二週間、朝から夜までの新入社員研修の仕事を引き受けている。それと合わせれば、五月から六月にかけて、約八〇万円の収入を得ることができる。それだけの資金があれば、四か月程度なら、なんとかなる。その間に、仕事を次の展開に結びつけることさえできれば!  さらに二週間後のナガタ医師の診察には、全国「非正気」集団の相談窓口の女性が付き添ってくれることになった。クリニック入り口で待ち合わせたその女性・マキさん(仮名)は、四〇歳くらいに見える、化粧っ気がまったくなく質素な身なりをした、少しも「女らしく」ない、サバサバとした口調で話す人だった。ナガタ医師は、私と一緒に入ってきた女性が  「はじめまして、私、全国『非正気』集団の者です」 と名乗ると、目を丸くして息を呑んだ。そして、  「ああ、キミたちのことは、よく聞いてるよ」 と答えた。私はなんだか、大変な人に同行してもらったらしい。そのことだけはわかった。そして、ナガタ医師はにこやかに笑いながら、  「もちろん、僕としても、みわさんの希望を最大限尊重するよ」 というふうに、彼女に話したのである。  何がどういうふうに動いたのでそうなったのか、私にはよく理解できなかった。とにかく、自分は「拉致」されずにすみそうだということだけはわかった。東京にいられるのなら、いや、いつづけるためにも、私はしっかり仕事をしなくては。東京にいることが目的なのではない。自分くらいの年齢の女性が、資格職ではないけれども何らかのスキルを持つ職業人としてキャリア構築をすることができる社会は、現在の日本の中では東京とその近郊くらいにしかないからだ。  この時の女性・マキさんとは、現在も親交が続いている。四〇歳くらいに見えた「見た目」年齢は、あとで聞いたところでは五三歳ということだった。私は驚いた。「言っていることとやっていることが違わない」は、若さの秘訣なのかもしれない。  あえて友情を確認するようなことは一度もしていないのだが、マキさんは現在の私にとって大切な親友の一人であり、おそらくは最大の理解者の一人でもある。思想信条には、同意できない部分・反りの合わない部分も大いにあるけれども。そして現在の私は、マキさんと一緒に、全国「非正気」集団の運営を手伝っている。知れば知るほど、日本「唯一」といってよい、精神疾患を持つ人々にとって貴重な運動体だからだ。過激さも、その過激さがなければ成し遂げられないことが数多くあるのだということを、今の私は理解している。何よりもマキさんは、障害者団体の運営にまつわる数多くの事務処理や交渉事を、的確にテキパキとこなすことのできる、「仕事のできる」女性だ。とはいえ、マキさんは精神疾患のため、心身とも調子に大きな波があり、健常者中心の企業に勤務して賃金を得ることは非常に困難であろうとは思われる。生活は、障害厚生年金に支えられている。マキさんは、高い賃金を得ているわけではないし、世間から高く評価されているボランティア団体に属して一定の社会的ステータスを得ているわけでもない。でも、そんなことが、マキさんの価値を高めたり低めたりしているだろうか?  マキさんとの出会いは、私に「人間の価値って、何だろう?」「意味のある仕事って、何だろう?」と考え始めるきっかけをつくってくれた。もちろん、お題目としての「すべての人に価値がある」「生命は大切」は、頭では理解してきたつもりだ。生育した福岡の封建的な地域性と、激しいイジメや格差や差別もある小学校での戦後民主主義教育の「ごった煮」状態の中で。それらのお題目をお題目で終わらせないために必要なことは、非常にシンプルだ。すべての人が、価値のある人として扱われればいい。生命が大切にされればいい。それだけのことだ。  しかし、この時の私は、「自分のよく知らない異次元の世界から、救いの手が差し伸べられた」という認識だった。もちろん、マキさんに、その場で感謝は表明したけれども、頭のなかは「?」マークでいっぱいだった。そもそもマキさんは、何のために、私にこんなことをしてくれるのだろうか? 私に何か利用価値を認めているからだろうか? いや、そうではないだろう。精神科長期入院中の精神障害者たちのためにも、マキさんは身を粉にして尽力しているではないか? 当時の私にとってのマキさんは、「何だかよくわからないけど、魅力的で、信頼できそうな人」だった。  私はその晩、かなり深く安心して、深く眠ることができた。  自分とはまったく違う世界にあるような気がしていた、障害者問題、社会保障、生活保護といったキーワードが、急激に自分に近づいてきた気がした。依然として、それらのキーワードは、「仕事で大きな達成をして、高いレベルで自己実現をする」という過去の自分の人生の方向性とは次元の異なるものであるように感じ続けてはいたけれども、それらのキーワードが近づいてくることを実感したときに感じたのは、決して、不快や不安や屈辱感ではなかった。むしろ、より精神的により高みに上る可能性という希望であり、落ち着きであり、心の平安であった。  しかし同時に、依然として、私は健常者の職業生活の世界に生き続けていた。松葉杖をついて、足を引きずって、ゆっくり歩きながら。たぶん、また、杖を使わずに歩けるようになるだろうと、根拠もなく確信していた。そうならなければ、健常者の世界の職業人で居続けることはできない。心のどこかでそう思っていた。明日はもうちょっと、速く歩けるように、長く歩けるように、もっと努力しなくては……。  目の前には、四月から始まる社会人教育の機会があった。私は、会場がバリアフリーであるかどうかをまったく気にかけていなかった。そして、自分が無視していたその問題から、大きな打撃を受けることになるのである。 ●第3回 困窮へのバンジージャンプ 〜福祉事務所で生活保護申請を勧められた私   目  次 運動障害から、仕事での失敗の連鎖が 綱渡りのように 私も「OUT」していくのだろうか? そして福祉事務所へ ★運動障害から、仕事での失敗の連鎖が  二〇〇六年四月。  私は、ICT(情報・通信)系のとある資格試験と、間近に迫った特集記事の締め切りを目の前に、あたふたとしていた。二〇〇五年秋から発生した運動障害のため、松葉杖をついたり車椅子に乗ったりしていた私の身体の状況は、その時期、一時的に好転していた。短い距離ならば、一本杖だけで移動することができた。私は、  「そのうちに、また踊ったり走ったりできるだろう」 と、根拠もなく考えていた。その八か月ほど前、二〇〇五年八月ごろの私は、  「週に一回、一時間三〇分のバレエのレッスンをこなし、『運動し足りない』と五〇〇〇メートルを走り、『身体が温まりすぎた』とプールで一〇〇〇メートル泳ぐ」 という、驚異的な体力と運動能力を誇る四二歳だった。  その資格試験は、特に難しいものではなかった。ICT系企業A社の新人研修で、データベース技術を教えるための最低限の資格だった。私は四月後半から、都心にある金融系中堅システム・インテグレータA社の新人研修を担当することになっていた。そのため、急遽、受験が必要になったのだった。過去にも、同等の難易度の資格試験を、若干の準備でクリアしてきた。  四月初めのある日、ある程度の試験準備をした私は、試験会場として指定された渋谷の高層オフィスビルに向かった。JR渋谷駅から、そのビルまでの五〇〇メートル程度を歩いた。長い廊下を歩き、エスカレーターに乗った。  高層階にある試験会場に到着した時、私はすでに疲労困憊していた。脂汗がだらだらと垂れ、身体のあちこちが痛んだ。  試験は、パソコン上で行われた。私は驚愕した。文字が震えている。ほとんど読めない。自分では椅子にじっと座っていたつもりだったけれども、たぶん、身体が細かく震えていたのだと思う。「たぶん」というのは、ところどころ読める文字もある画面と格闘し、問題をなんとか解こうと必死だったからだ。試験結果はその場で表示された。不合格だった。  私は、新人研修に私を派遣する企業C社の担当者と相談した。「内容的には、大丈夫でしょう」ということで、私は新人教育に臨むことになった。その前に、特集記事の原稿を終わらせておかなくては。私は、難しいわけではない試験の「不合格」に落ち込む間もなく、三〇ページほどの記事の執筆に注力した。原稿は無事、四月半ばに手離れした。ほっと一息つく間もなく、新人研修の開始日がやってきた。  新人研修の会場は、都心にある東京メトロの駅すぐそばの企業であった。大学生時代、その駅から遠くない地域に住んでいた私は、その地域一帯には、馴染みがあった。だから、下見にも行かなかった。ところが……。  私は、ラッシュアワーの車両に乗り降りすること・乗り換えを行うこと・駅を利用することのすべてにおいて、支障を抱えるようになっていた。会場最寄りの東京メトロの駅は、地上に出るために三階分の階段を上る必要があった。さもなくば、エレベータである。しかしエレベータを利用すると、五〇〇メートル程度の遠回りとなる。「究極の選択」で、階段を利用した。  会場に到着したときには全身が汗まみれ、疲労困憊してしまっている状況で、教育の仕事を満足のいくレベルで行うことはできない。移動以前にも問題があった。スーツやシャツを着たり脱いだりすることに困難が発生していた私は、ラフな服装で臨むしかなかった。着脱が比較的容易で、ラフなイメージを与えない服装をすることは、運動にかかわる障害を持つ人々にとっては、現在も非常に困難な問題の一つだ。もし、潤沢な経済力を持っているのであれば、自分の身体の事情に合わせた衣服をオーダーメイドで調達し、いくらか困難少なく着脱することが可能だろう。しかし、障害によって経済力を奪われた状態では、衣服のオーダーなど、ほとんど夢物語だ。  数日のうちに、実際の派遣元であった長年のクライアントC社には、B社からの苦情の電話が、何回もかけられたそうだ。研修開始から四日目、私はお役ごめんとなった。直接の派遣元であったB社の男性社員は、私を病原菌のように睨みつけ、「これで全部ですか」と言いつつ、教材をひったくるように私の手から取った。私の派遣形態は、よくある二重派遣だった。自分自身の手取り報酬がそれほど悪くないため、当時の私は、二重派遣を問題だと考えていなかったのであった。  私は、その男性社員に対して  「ツバや鼻汁を引っ掛けられずに済んで、よかった」 と思った。周囲に人がいなければ、そういうこともありえたかもしれないほどの態度だった。  ちなみに、大手電機メーカーの一つであるB社は、当時、日本の中では先進的で実効性のある障害者雇用で知られる存在だった。対象は、視覚障害者などの「わかりやすい」身体障害者だった。その障害者たちの活躍ぶりも、勤続年数も、申し分のないものであった。  一方、B社のメンタルヘルス対策は、きわめて「お寒い」ものであった。二〇〇〇年ごろに聞いた話では、精神を病んだ社員が、いわゆる「追い出し部屋」に押し込まれていたということだ。また、高い吹き抜けのある本社ビルの中では、吹き抜けから 飛び降り自殺を図った社員もいた。しかし遺体の発見された場所は社屋内だったため、飛び降り自殺の事実は揉み消されたとも聞いている。  B社は二〇一二年ごろから、熾烈かつ手段を選ばない人員削減や身もフタもないパワハラで問題視されるようになった。問題になった手段のそれぞれは、二〇〇〇年ごろにはすでに、小規模に、一部の社員を対象に実施されていたものばかりである。また、漏れ聞くパワハラの実態の数々も、私がその時に受けた扱いから考えて、「当然ありうるだろうなあ」という感じの話ばかりである。  弱い立場になると、数年先に大規模に起こることを、先に強制的に体験させられてしまう。たぶん、それだけのことだ。  私は事前に、直接のクライアントC社に対して、運動障害について正直に述べ、相談する必要があったのだと思う。私のそれ以前の実績は、相談して何らかの対応を得ることが可能なものであったはずだ。しかし、私は自信を持つことができなかった。状態が安定しているわけではなく、医師から何の病気であるとも診断されていない運動障害に関して、クライアントにどう説明すればよいのか?  心身ともタフな自信があった私は、この時、精神的に完膚なきまで打ちのめされてしまった。でも、自分に言い聞かせた。私は大丈夫。得られるはずだった一〇日分の報酬が四日分になっただけだ。社会人教育が今後続けられなくなるとしても、著述業が残っている……もう、そこで頑張るしかないじゃないか、私は、二匹の猫たちのお母さんなんだから!  うまくいかないときには、トラブルが重なるものである。  近所に住んでおり、何かと私を助けてくれた若い友人のナオヤ(仮名)が、精神に変調をきたした。引き金の一つには、元気そのものであった私の歩行が困難になり、松葉杖や車椅子を必要とするようになり、なんとも浮かない表情を浮かべることが増えたこともあったかもしれない。このころ、ナオヤに、  「みわさんに、もう一度、杖も何も使わずに歩いたり走ったりしてほしい」 と泣き出されてしまったことを、私は心の痛みとともに思い出す。当時の私には、  「自分の現状は、海外の紛争地帯での取材をこなし、イラク戦争直後のイラクの惨状も見てきたナオヤが泣くほどのことなのだ」 という自覚が、まったくといってよいほどなかった。  ナオヤは、精神科病院の閉鎖病棟に入院した。数か月の入院の後、ナオヤは地方の実家へと帰っていった。  そこには、幼少のナオヤに暴力を振るったアルコール依存症の父親がいる。精神の健康を失ったナオヤは、実家に帰る以外の選択肢を考えることができなくなっていた。  そして二〇一三年九月現在、ナオヤはまだ、回復も就労もできないまま、その実家にいる。ナオヤは、他の家族にも軽く扱われ、自尊感情をないがしろにされ続けている。一方で、父親は老いて弱くなり、暴力を振るわれることもある立場になりつつある。漏れ聞く限りでは、ナオヤの実家では口論や殴り合いが絶えず、いつも誰かが怪我をしているという。 ★綱渡りのように  二〇〇六年四月末、私自身の目先の問題は、四月に執筆した特集記事の原稿料が入る七月まで、入金予定がないことだった。予定では、新人研修によって、私は二五万円ほどの報酬を得るはずであった。それが一〇万円になってしまった。貯金は、すでに底をついていた。  私はカードローンを利用し、リボルビング方式で七〇万円を借り入れた。リボルビング方式が最終的な返済金額を増大させてしまうものであることは、よく知っていた。けれども、他に資金調達の当てはなかった。その七〇万円で、私は五か月分の家賃を支払った。また、介護用品のリース業者から電動車椅子を借りることにした。そうしなければ、仕事の打ち合わせにも取材にも行けないからだ。リース費用は、前もって三か月分支払った。残りは二〇万円ほどであった。四月末に振り込まれた一〇万円と合わせて、三〇万円。  そこから、三か月分の水道光熱費・インターネット回線費用・携帯電話の維持費用などを確保した。「五か月分」と言いたかったところだが、そうすると、あまりにも手元不如意になるからだ。私は、自宅の回線に固定IPアドレスの割り当てを受けており、その分もインターネット回線費用は割高にならざるを得なかった。そして、二〇万円が残った。この二〇万円で、わが一家が三か月生き延びられれば、とりあえず七月末には原稿料が入る。そこで一息つける。  私は、ネットで激安キャットフードを探した。まずはドライフード。一〇sで一六〇〇円の激安フードを見つけた。正直なところ、内容に不安を感じる安さであった。迷ったが、いざというとき「猫に食べさせるものが何もない」より悪いことはない。二袋購入した。当時九歳と八歳、身体が比較的大きいほうだった猫たちは、ドライフードだけなら一か月に四〜五sを必要とした。二〇sあれば四か月はもつ。  それから、「猫缶」と呼ばれるウエットフードの缶詰。缶が歪んだりラベルが剥がれているために安価なものを、ネットオークションで探した。二匹の猫たちの一日二食分にあたる大き目の缶を、五〇個ほど調達した。送料を含めて、約四〇〇〇円であったと思う。  もちろん、自分の食べ物も必要だ。ネットオークションで飼料用の玄米を見つけた。一sあたり一〇〇円程度であった。二sほど購入してみた。届いたものを見ると、未熟で不揃いの玄米に、モミをかぶった玄米・多種多様な雑草の種、それから若干の小石や砂が混じっていた。それだけなら、「雑穀ごはん」の先駆けであったかもしれない。  飼料用玄米を丁寧に洗い、目に見える小石や砂を可能な限り取り除いて炊いてみた。味は「まあ、食べられないことはない」というものであった。しかし、取り除ききれない小石や砂に閉口した。おちおち噛むこともできない。どうすれば、小石や砂を心配せずに食べられるだろうか? 何回かの試行錯誤の末、「お粥にして上澄みだけを食べる」という方法にたどりついた。いろいろな草の種が口の中でプチプチとはじけるお粥は、それほど不味なものでもなかったが、お粥ではなく、ご飯も食べたい。  ……しばらく考えこんだ後、私は意を決して、一九九〇年代からお世話になっている近所の米屋に電話した。そして、いちばん安い米を一〇s購入した。その米屋は、玄米で仕入れ、注文に応じて精米してくれる。その時の私は、全部玄米で購入した。絶望的にお金がなく入金予定もないわが家で、せっかく玄米に付属している糠の栄養分を逃すなどというゼイタクができようか?   生存に最低限必要なのは、炭水化物だけではない。タンパク質源も必要だ。私はまたもやネットオークションを探し、豆の水煮缶を二s分ほど購入した。米一〇sと豆のセットでタンパク質を充分に確保しようとするならば、豆水煮缶ならば少なくとも五sが必要なのだが、日本には、コンビニやスーパーで安価に入手できる「納豆」という存在がある。電動車椅子さえあれば、いつでも納豆を買いに行ける。あとは、野菜と若干の魚があれば。魚は、猫たちのごちそうにもなる。それから、若干量のナッツとドライフルーツ。それだけあれば、栄養的な問題のない食膳を、なんとか整えられる。  私はもともと、野菜の多くを、近所の農家の無人販売スタンドで調達していた。大根一本一〇〇円、キャベツも一個一〇〇円程度で購入できる。当時も今も、私は杉並区の西部、練馬区・武蔵野市との区境・市境のすぐ近くに住んでいる。この地域には、現在もかなりの農地が残っており、それらの農地では野菜がきわめて安価に販売されている。  飼料用の玄米にまで手を出していた当時の私にとっては、無人販売スタンドの安価な野菜でさえゼイタクだった。私は、無料で調達することの困難な野菜に限り、無人販売スタンドで調達することにした。……スーパーの野菜売り場で、買い物客が廃棄する大根の葉・キャベツの外葉・レタスの外葉である。とはいえ、スーパーでそれらを掴んで持ち帰ろうとすると、万引きと間違えられて通報されるかもしれない。車椅子に乗っているだけで目立つのだから。  私は夜遅く、スーパーに行った。そして、見切り品の野菜を何か一つ、たとえば「しなびたキュウリ三本五〇円」といったものをバスケットに入れた。そして、捨ててある野菜くずもバスケットに入れ、レジに持って行った。つまり、わずかな買い物を行い、野菜くずを入手しようということである。  「お客さん、お買い上げはこれだけですか?」 と店員にイヤミったらしく言われたが、  「はい」 と、ことさらに明るい笑顔で答えた。そうして、私はレジ袋いっぱいの野菜くずを得て持ち帰った。それらの野菜くずを洗い、茹でて冷凍し、塩漬けにした。味付けや盛り付けには、なるべく惨めったらしい気分にならないよう工夫を凝らしてみた。それでも、どうしても、惨めったらしさを感じないではいられなかった。  魚は、もっぱら煮干しを利用した。ダシを取ったあとの煮干しをいったん風干しし、クズ野菜とともにマリネにして食べたりした。「その煮干しはダシがらで、野菜はスーパーで捨ててあったキャベツの外葉で」と言わなければ、おしゃれな一品ではあった。そんな時、私の脳内で「しょせんは自己満足」という誰かの声が鳴り響いた。誰の声であるともつかなかった。そうだ。自己満足だ。他人が私の何かに満足していれば、わが家はここまで、お金がない状況には陥らなかったはずだ……。 ★私も「OUT」していくのだろうか?  そんな状況下、私は二週間に一度、スノッブな街にある精神科クリニックに通院していた。ウツウツとした気分をどうしようもない当時の私にとって、精神科クリニックへの通院は、必須であったといえる。問題は、その精神科クリニックで経済的な困りごとの相談をするのは困難だ、ということだった。困窮を訴えたら、実家に連れ戻されてしまうかもしれない。父親は、出身地の福岡に私を連れ戻そうとしていた。そして精神科の主治医であったナガタ医師(仮名)も、父親に協力的であった。こと精神科の治療では、社会生活・地域生活・家庭生活を含め、生活全体の底上げが重要だ。だから、このクリニックに通院を続けることは、私の治療にとって、あまり有意義ではなかった。それでも私は、その精神科クリニックへの通院を続けていた。  家に閉じこもってばかりいると、二匹の猫たちが一緒にいるとはいえ、暗い可能性ばかり考えてしまう。猫たちが愛らしい表情を示したり、私を気遣う素振りを見せてくれればくれるほど、私は大声で泣きたい気持ちになった。猫たちが急病になったら、動物病院に連れて行って治療を受けさせることができるだろうか? 猫たちの生涯を、支えてやることができるだろうか?   私は、心配で心配でしかたなかった。ただごとならぬ雰囲気は、二匹の猫たちも察していたようだった。特に、九歳のお姉ちゃん猫は、しばしば「お母さん、だいじょうぶ?」という表情で、悶々とする私の顔を覗きこんだ。そういう時、私はことさらに明るく振る舞った。猫にまで心配をかけて、どうする!  そうは言っても、お金の心配は切実だった。私は「カネなし音頭」や「カネごいの歌」をつくって歌い、身体の動くところを使って踊った。お姉ちゃん猫は、ますます心配そうな表情になった。そんなお姉ちゃん猫の顔を、八歳の弟猫が不安そうな顔で見た。お姉ちゃん猫は、弟猫を抱き寄せ、舐めてやった。私はますます、「うわあああ」と泣き叫びたい気持ちになった。泣くのをガマンして、お姉ちゃん猫に「ありがとう」と感謝した。  二週間に一度、処方されている常用薬の切れ目ごとの精神科クリニックへの通院は、私にとって、貴重な気分転換の機会であった。私は診察だけではなく、デイナイトケアにも参加していた。デイナイトケアは「宿泊を伴わない入院」である。参加すれば、診察のみならず、精神科病院の入院で提供されるミーティングや文化活動などのプログラムに参加することができる。入院に準じて食事も出る。つまり、参加すれば、昼食と夕食が食べられるということである。しかも、精神保健福祉法三二条による精神医療費用減免(現在の障害者自立支援法による自立支援医療)を利用していた私の場合、当時、費用は無料だった。  私は、診察、食事目当てのデイナイトケアのついでに、患者と医師のミーティングにも参加していた。とにかく人間の顔を見て、人間と会話する機会をつくりたかった。そのミーティングで、ある日、医師の一人が、桐野夏生の小説『OUT』を話題にした。たいへん面白い小説であるようだった。  私は帰途、文庫化されていた『OUT』を書店で買った。上下巻で一三五〇円。痛い出費だったが、それ以上の価値があったと思う。余すところなく描かれていたのは、日本の現実そのものだった。崩壊する家庭。どうしようもなく存在する階級格差。各階級の中で安定していることだって容易ではない。登場人物たちは容易に、中流から下流に、下流から犯罪や死へとこぼれ落ちていく。  「自分も『OUT』していくしかないんだろうか?」 と不安を覚えつつ、私は何度も何度も、『OUT』を読み返した。登場人物のセリフを暗記するほど読み、ついでノートを広げ、この小説の構造を自己流で分析した。設定のしかた、背景の描き方、物語構造。ミステリーやエンターテイメント小説にまったく関心がなかった私は、この一作品から非常に多くを学んだのだが、その時は「そうせずにいられない」という思いに駆られて分析をしていたのだった。「将来、役立つかどうか」を考える余裕はなかった。ただ、何か意味ありそうなことをしていないと、気が変になりそうだった。  その次には、新井素子の小説『チグリスとユーフラテス』を買った。こちらも、上下巻で一五〇〇円ほど。SF小説の形を取ってはいるけれども、究極の少子化の物語だ。もはや子どもが新しく生まれることのなくなった社会は、どのように変容していくのか。そして、最後の子どもは、どのように「最後の人間」へと成長していくのか。そこには、どのような絶望があるのか。その先には、どのような希望がありうるのか。私は、最後の人間となった女児「ルナちゃん」に、自分自身を重ねあわせた。「他に人間がいない」という究極の孤独の中で、ルナちゃんは人間的な成長の機会を得る。そして、猫と暮らすことによって、他者に愛を注ぐことを知る。ただ一方的に愛されるのではなく。そして、ラストシーン。たくさんの猫が遊ぶ畑の中、自ら掘った自分の墓穴に、身体を半分埋めて息絶えたルナちゃん……。私は、自分の住まいの中で、誰にも知られず息絶える自分を思い浮かべた。そして、その自分の遺体を見つめる猫たちを思い浮かべた。さらに、誰にも知られず、一人と二匹が死んで腐敗していく様子を思い浮かべた。  私はさらに、ウツウツとした気持ちになった。死にたくなった。  こんな気持ちになってしまうのは、あまりにも手元にお金がないからだ。借金でもなんでも、手元にお金があれば! ★そして福祉事務所へ  二〇〇六年七月、私はインターネット検索で、行政の資金貸付制度について調べた。社会福祉協議会が貸付を行っており、低利、かつ返済条件が緩やかであることがわかった。そこで、杉並区の社会福祉協議会に行ってみることにした。ところが、たどりついた窓口は、なぜか福祉事務所だった。同じ建物にあったので、間違ってしまったのだ。  私に応対したのは、「相談員」と名乗る四〇歳前後の女性と、身体障害のケースワーカーであるという三〇代の男性だった。私が電動車椅子でそこに現れたので、身体障害のケースワーカーが同席したのだろうか。相談員は、落ち着いた雰囲気で、穏やかながらはっきりとした物の言い方をする、知的な感じのする人だった。  相談員に尋ねられるままに、私は生活状況や経済状況について答えた。内心「まずいことになってしまった」と思いつつ、事実ありのままを答えた。貯金の金額を尋ねられ、「あと七万円」と答えた。女性と男性は、顔を見合わせた。  「でも、今月末には、四月にした仕事の収入が入るんですけど」 と明るく答えた私に、相談員は  「ちょっと待ってください」 と答え、立ち上がった。そして別室に行き、薄いパンフレットを手にして戻ってきた。そのパンフレットには「生活保護」と書かれていた……えっ?  そして相談員は、三分ほどでテキパキと、生活保護制度の説明をした。ついで電卓を取りだし、私が受け取ることのできる生活扶助費と住宅扶助費を計算した。もし身体障害者手帳を取得することができれば、障害加算もつく。身体障害者手帳の等級が一級だったら、特別障害者加算も。住宅扶助費の上限も、障害者向けに通常の単身者(五万三七〇〇円)より高い基準(六万九八〇〇円)となる。それら全部の合計金額は、一八万円を越えていたと記憶している。  目をパチクリさせている私に、相談員は申請書を差し出した。えっ? これが? いわゆるひとつの「水際作戦」で、なかなかもらえないという生活保護の申請書? 私はさらに目をパチクリさせた。そんな私に、相談員は  「権利なんですから、利用してください」 と、穏やかに話し、申請書の記入要領と必要な書類について説明した。  私はやっとのことで、  「ありがとうございます。今すぐという決心はつかないので、持ち帰って考えさせてください」 と言った。相談員は  「そうですね、ご家族と相談する必要もあるでしょうしね」 と、にこやかに答えた。そうだ……家族。二匹の猫は、反対しないだろう。でも、福岡の実家にいる家族は?   「外聞が悪いから、そんなことはやめて、帰って来なさい」 というのではないか? 「自己責任」と嘲笑するのではないか? それは、餓死や孤立死よりも辛いことだ。ただ、今、目の前には、私が東京で自立生活を営むために利用できそうな手段が、具体的に提示されている。これが希望でなくて何であろうか!  私は、すっかり明るく晴れ晴れした気分になって、福祉事務所を後にした。もちろん、生活保護のパンフレットと申請書は、しっかり持ち帰った。いざという時の、最後の手段。最後の手段は、おいそれと使うものではない。でも、必要なら使えばいい。必要な間は、使えばいい。一か月に約一八万円(うち家賃約七万円)もの現金があれば、ゼイタク体質ではない私のこと、充分に生活を再建できるだろう。  七月末、待ちに待った原稿料が振り込まれた。私はスーパーの青果売り場に行き、見切り品ではない野菜や果物をバスケットに入れた。クズ野菜を持ち帰るのでも、見切り品を迷いに迷った挙句に購入するのでもなく、ふつうに陳列されている野菜を、ふつうに購入する。たったそれだけのことが、こんなに嬉しいとは。困窮する以前には、考えてみたこともなかった。  さらにキャットフード売り場に行った。一缶が猫の一食分にあたる小さな「猫缶」を、一〇個ほどバスケットに入れた。一缶八五円程度ではあるけれども、当時のわが家では、なかなか手の出せないゼイタクに属していた。鮮魚売り場にも行った。見切り品ではない刺し身もバスケットに入れた。  私は電動車椅子の後ろに、それらの買い物をぶら下げて帰宅した。歓迎してくれる二匹の猫たちをかまいつつ、台所に行き、二匹の猫たちの食器に猫缶の中身を盛った。その上に、刺し身を飾った。そして、声を張り上げた。  「ごはんだよ! おいしいごはんだよ!」 二匹の猫たちは、嬉しそうに食事にむしゃぶりついた。私は涙が止まらなくなった。  この後、わが家の経済状態は急激に好転したわけではない。その後も、危機的な状況は続いた。しかし私の目の前には、翌月、八月締め切りの特集と、八月からはじまる新連載があった。  「真面目に働いていれば、なんとかなるんじゃないの……?」 根拠もなく、自分にそう言い聞かせるしかなかった。  とにもかくにも、バンジージャンプのロープは、切れなかった。あとは、ゆっくりと登っていくだけだ。 ●第4回 根拠はないけど、行ってみる 〜大学院博士課程までの試行錯誤   目  次 前進しなくては、でも、どこに? 洗濯物を「選択」する毎日 和式トイレを「征服」したのはいいけれど 車椅子で名古屋出張 大学院に合格するも、親友マサシ死す ★前進しなくては、でも、どこに?  二〇〇五年秋に発生した運動障害のため、つぎつぎに職業機会を失った私は、二〇〇六年七月には福祉事務所で生活保護の申請を勧められるほどの困窮状態に陥っていた。しかし、その直後、数か月前に執筆した雑誌の特集記事の原稿料が振り込まれた。  原稿料が振り込まれた二〇〇六年七月三一日夜、私の目の前には、久しぶりの刺し身、ややゼイタクなキャットフードに舌鼓を打つ二匹の猫たちがいた。それまでの数か月、猫の食事といえば、原材料や安全性が不安になるほど安価な「カリカリ」ことドライフードに、質より量を優先したタイプの安価な「猫缶」ことウエットフードだった。  「お母さん、またこれ?」 という感じの不満そうな表情を浮かべる九歳のお姉ちゃん猫と八歳の弟猫を前に、  「ごめんね、これしかないの。食べて」 と言い聞かせる日々には、ひとまずの中断が訪れた。  夢中で食事にむしゃぶりつく猫たちの背中を眺めながら、私は今後について考えた。  さしあたり、目の前の仕事はある。八月締め切りの技術誌の特集記事、それから、同じ技術誌で開始予定のインタビューシリーズの連載。さらに、電子部品の製造機器メーカーのWebサイトのための広報文の作成。問題は、技術誌が季刊誌だということだ。それに、特集は毎号必ず担当できるわけではない。広報文の仕事は、サイト全体の日本語・英語の文章を全部まとめて請け負うことになったため、報酬は小さい額ではない。しかし、コンスタントに仕事が続くという見通しは、まったくない。私の筆一本で、二匹の猫と自分自身の生活を支えつづけることは、できるだろうか? 猫たちが平均的な寿命に恵まれて一五年程度の生涯を全うするとすれば、八歳の弟猫が一五歳になるまで、あと七年もある。一〇歳をすぎれば、加齢に伴う病気にも罹患しやすくなるだろう。適切な医療を受けさせるには、いくら必要なのだろう?  ……考えれば考えるほど、見通しは暗くなるばかりだった。科学・技術系媒体の休刊や、紙媒体が維持できなくなったことを理由としてのWeb媒体への移行は、この時期、恐ろしいほどの勢いで続いていた。ページ単価一万円として、一月に平均して二〇ページを執筆することが可能であれば、私はなんとか生活を維持することができるだろう。しかし、車椅子を利用しているため移動に時間がかかり、その車椅子の維持にも余分な出費を強いられる状況では、営業も取材も容易ではない。少なくとも、これまでとは方法を変えなくてはならないだろう。でも、どうやって?  当時の私には、この問題について具体的な相談をできる相手がいなかった。過去に仕事をしていた科学・技術系媒体の編集者の多くが、媒体の休刊や方針転換とともに勤務先を去り、その後の消息も不明になっていた。では、科学・技術にこだわることをやめるか? 当時の私にとって、それは死ぬより辛い選択だった。  大学進学にあたっての進路選択、理学部物理学科への進学、大学院修士課程への進学、研究職としての電機メーカーへの就職、まもなくバブルがはじけ、いわゆる「血で血を洗うリストラ」の最中の研究職としての職業活動の継続……。私は、場合によっては生命までも危険にさらして、性差別と闘ってきた。性差別に勝てるとは思っていなかった。でも、せめて、性差別をする側の思い通りにならずにいたかった。それができなくなるときには、自分は死ななくてはならない。私は、そこまで思いつめていた。二〇〇六年当時も、思いつめ続けていた。  では、どうすればよいか? 科学・技術にこだわりつつ、モノカキ稼業ではない道を探す必要があるだろう。こだわっていたら、猫たちを守れないことは明確なのだから。目の前の仕事に対してベストを尽くしつつ、経済面を安定させる方法を何か考えなくては。  ちょうどその時期、分野を特定しない研究者のメーリングリストで、国立北関東マンモス大学(仮名)の大学院博士課程が社会人に対して広く門戸を開くという情報が流れた。二〇〇〇年、電機メーカーを退職して以来中断したままの研究に、何らかの形で再度かかわりたいという強い希望を持っていた私は、その情報について調べてみた。なんとか入試を突破してしまいさえすれば、奨学金・学費免除制度などをフル活用して、少なくとも三年間は経済的な心配は少なく学業に打ち込めそうだ。三年間で博士号を取得して、その後は大学や研究機関で科学コミュニケーションに従事できないだろうか?   ……実現の可能性がどの程度あるかはともかく、その目標と、その目標に対して努力することは、私に大きな希望をもたらしてくれるものであった。失敗すれば、奨学金という形で大きな借金を背負い、それまでほぼ無傷だった学歴に「大学院博士課程中退」という傷がつくことになる。そういうリスクはあるけれども、チャレンジしてみよう。少なくとも、猫たちが一二歳と一一歳までの生活は、さまざまな経済的支援を駆使して支えてやれるのだから。  ライターとしての仕事のかたわら、研究の世界に舞い戻ろうと試みる日々が始まった。 ★洗濯物を「選択」する毎日  とはいえ二〇〇六年夏、私の日常生活はまだまだ試行錯誤の連続だった。車椅子生活には相当慣れてきてはいたものの、できることが少なくなってしまった身体で日常生活や家事をこなすことには、充分に習熟できていなかった。  相変わらず、連続しての歩行は数メートルが限界ではあったけれども、全体的な体調は悪くはなかった。しかし、生活のためにも仕事のためにも必須の車椅子生活によって、身体のあちこちに問題が発生しはじめていた。外出して、八時間ほど連続して車椅子に乗っていると、翌日は身体中が痛くて起き上がるのも困難なほどだった。原因は、リース品の車椅子が身体に合っていなかったことである。ちなみに、翌年の二〇〇七年になると、痛むことはほとんどなくなり、そのかわりに激しい全身倦怠感を感じるようになる。当時は知らなかったのだが、身体に合っていない車椅子には、日常生活はこなせる高齢者を認知症にしてしまうほどの破壊力がある。  当時の私は、昭和三〇年代に建造された木造の借家に住んでいた。三つの駅を利用可能だが、どの駅からも遠い。建物は古び、夏は暑く冬は寒かった。トイレは和式。洗濯機を置くスペースはなかった。大型冷蔵庫を置くためのスペースは考慮されておらず、かわりに床下に味噌・梅干・漬物などの保存食を貯蔵するスペースがあった。ちなみに、「三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒TV)」とも呼ばれた家電製品が一般家庭に普及しはじめたのは、昭和三〇年代のことであった。  一九六三(昭和三八)年に福岡市で生まれ、福岡市郊外の農業地帯(当時)で育った私は、そのような生活スタイルにまったく違和感を持っていなかった。一人分の洗濯物の洗濯など、入浴ついでに手洗いすればよいのである。その家に転居したのは一九九九年であったが、身体障害が発生した二〇〇五年夏まで、何の疑問もなく、私は洗濯物を手洗いしていた。  二〇〇七年夏は、このような生活を営みつづけることが困難になってから初めての夏であった。  住まいに洗濯機を置けない以上、洗濯はコインランドリーで行うしかない。幸い、私の住まいの近くにはまだ銭湯が残っており、付属するコインランドリーもあった。しかし、溜め込んだ洗濯物を抱えて車椅子でコインランドリーに行くことは、大いなる困難を伴った。行きは、バッグに押し込んだ洗濯物を抱えて行けばいい。しかし帰りは、濡れて絡まりあって重たくなった洗濯物を抱えて帰るのでなければ、乾燥機で心地よく乾燥され、しかし嵩高く膨らんでしまった洗濯物を持ち帰ることになる。当時はまだ、車椅子で荷物とともに移動することに充分に慣れていなかったので、このようなことが一つ一つ負担に感じられた。いきおい、コインランドリーには  「着るものが本当になくなりそうになってから行く」 ということになった。二〇〇七年春までは、それでも大きな問題はなかった。問題は夏である。    Tシャツ一枚、パンティ一枚、薄手の短パン程度なら、手洗いできないことはない。不潔な衣類を身につけていると自分自身が不快だから、脱いだらすぐに洗うようにしていた。それでも、充分に洗うことは容易ではなかった。何回か手洗いを繰り返すうちに、日常の衣類の多くは、取りきれない汚れと流しきれない洗濯石鹸の匂いが入り混じった、何ともいえない臭いを放つようになっていた。  私には、ときどきだが取材や打ち合わせでの外出の機会がある。そのような時に、不審を感じられるような衣類を身につけているわけにはいかない。そこで、「外出用」「ふだん用」の衣類を分けた。「外出用」は、着たらすぐにコインランドリーで洗濯する。ついでにシーツか布団カバーの一枚くらいも洗濯する。当時の私がコインランドリーに問題なく持って行けて持って帰れる洗濯物は、綿シャツ二枚・下着二セット・シーツ一枚程度であった。「ふだん用」は手洗いである。それらは臭いつづける衣類となるのだが、「しかたない」と目をつぶることにした。  八月の朝、じっとりと身体中に汗をかいて目覚めると、私は浴室に行き、着ているTシャツ・パンティ・短パンを脱いで濡らし、ボディーソープをまぶして足元に置く。そして逆さにしたバケツの上に座る。ついで顔と身体にボディーソープを塗る。三日に一度くらいは、頭を濡らしてシャンプーを塗る。シャワーで頭と身体を洗い流す。首から上は、服を着ていても他人から見える。特に頭頂部は、立って二足歩行している大人が私を見た時に、最も目に入りやすい場所である。特に、そういった場所に汚れが目立たないように注意する。障害だけでも多種多様な機会を失うのだから、それ以上に不利な条件は背負いたくない。  Tシャツなどにもシャワーの湯をかけ、ボディーソープを洗い流す。衣類は絞られていないままハンガーにかけ、浴室に吊るしておく。絞れないからである。  さらに、足をていねいに洗う。浴室のタイル床もくまなく洗い流す。ボディーソープやシャンプーが残っていると、転倒のリスクが大きくなるからである。最後に、タオルで床面と足の水気をふき取って、浴室から出て、大きく深呼吸する。浴室という危険な場所から無事に出るたびに、大げさではなく、ほっとするのである。  浴室に吊るしておいた衣類は、水滴に引っ張られて不自然に変形し、そのままの形でゴワゴワと乾いた。気持ち悪かったが、そのゴワゴワした衣類を着るしかなかった。そして問題は、着るものだけではなかった。 ★和式トイレを「征服」したのはいいけれど  汚い話で恐縮だが、当時の私の尻には、いつも大便がこびりついていた。  前述したとおり、当時の私の住まいのトイレは和式だった。便器が床面に埋め込まれているタイプではなく、便器部分が小上がりになっているタイプであった。小上がり部分には、窓枠を手すり代わりにして上ることが辛うじて可能であった。  二〇〇六年当時(現在もであるが)、和式トイレにかがむことができなかった私は、立ったまま用を足すことを覚えた。  小上がりに後ろ向きに立ち、やや前傾姿勢を取れば、便器に排尿することはそれほど困難ではない。排便も、さまざまな試行錯誤の末、立ったまま腹圧をかけて便器の中に「命中」させるコツをつかんだ。  出したら後始末が必要だ。和式トイレであるから、当然、温水洗浄の機能はない。トイレットペーパーで拭くしかないのだが、危険な姿勢にならないように注意しつつ局所を清潔に拭きあげることは、それほど容易ではない。それでも、なるべく拭き上げようと努力はするのであるが、限界があった。  シャワーを浴びる時、私は肛門に指で触れて確認した。トイレットペーパーで拭き取れなかった大便がこびりついていないかどうかをである。残念ながら、ほぼ毎回、肛門周辺には大便がこびりついていた。私は尻にボディーソープを塗り、指でていねいに洗い、シャワーで洗い流し、それから自分自身の指先を入念に洗い、入浴後には消毒用アルコールを噴霧した。  入浴の機会が非常に少ないので、肛門だけではなく全身に、こびりついた汚れが蓄積していっていた。  二〇〇六年秋のある日、私はコインランドリーで洗濯をするついでに、その隣にある銭湯に入った。広い浴槽で、身体をのびのびとさせたかった。  まず、洗い場で身体を洗い流した。アカスリに石鹸をすりつけ、身体中を可能な範囲で洗い、シャワーで流した。ついで浴槽に入った。そして気持ちよく目を閉じた。  ……三分後、目を開けると、お湯の表面は灰白色のフワフワしたもので覆われていた。自分の身体から出た垢だった。入浴を楽しむどころではない。私は銭湯の番台に声をかけ、状況を伝えて何度も何度も頭を下げ、そそくさと身支度をして銭湯を出た。  住まいから車椅子で五分、露天風呂もある心地よい銭湯には、以後一度も行っていない。 ★車椅子で名古屋出張  日常生活はチャレンジの連続、経済的には厳しい状況が続いてはいたけれども、二〇〇六年後半、私の仕事はまあまあ順調だった。  二〇〇六年一一月、私は季刊技術誌の二〇〇七年一月号で測定器の入門特集を担当することになった。担当編集者であるミキさんのサポートを受け、秋葉原の測定器専門店の中を思う存分見て回った。運動障害が発生する以前の私は、一か月に何回も、その博物館のような専門店の中をウロウロしていたのだった。久しぶりの店内の空気を、心の底から堪能した。  ミキさんとともに、私は測定器の専門メーカーも訪問した。最新鋭の測定器の数々を見ていると、「血が騒ぐ」という感覚があった。興奮と感動とともにコーヒーショップに入ったミキさんと私は、特集の内容について心ゆくまで話し合った。私にとっては、久しぶりのコーヒーショップでもあった。二〇〇円台のエスプレッソ・コーヒーや一〇〇円台のお菓子を、涙が出そうな感覚とともに味わった。  一二月には、ミキさんとともに名古屋の実力派零細企業を訪問した。測定器が現場で実際に使われている様子を、ぜひ記事内で紹介したかったからである。創業当時から知っている若い社長が、私たちの「仕事場を見せてほしい、紹介させてほしい」という依頼を快諾してくれた。客先の試作品を預っていることも多い、組み込みシステム開発では、「メディアの人間に仕事場を見せる」は一般的にはタブーに近い。  ミキさんと、車椅子に乗った私は、東京駅で待ち合わせて新幹線に乗った。私にとっては、初めての車椅子での新幹線利用だった。車椅子の乗客のための専用待合室、そこに行くための通路。何もかもが新鮮だった。なぜ、そのような待合室が必要とされているのかを考える余裕は、当時はまだなかった。東海道新幹線の場合、介助を必要とする乗客は、乗車を依頼してから乗車できるまでに長い時間を必要とすることが多いので、専用の待合室が用意されているのである。障害者が健常者と同じように交通機関を利用できるまでの道のりは、まだまだ遠い。  私は、旧知の社長と歓談し、会社が堅実な成長を遂げていることを心から嬉しく思った。もちろん取材は、きわめて有意義なものであった。このとき私は、自分が運動障害を持っていることや車椅子を利用していることを、ほとんど意識せずにいることができた。  夜、ミキさんは東京へと帰っていった。私は、名古屋在住の親友マサシ夫妻のマンションに泊まった。  マサシと私が出会ったのはいつごろだったか、もう正確には思い出せない。互いに互いの名前を意識しはじめたのは、おそらく一九九五年前後のことだったのではないかと思う。  一九九〇年前後、個人がパソコンで使うことのできるUNIX(一九七〇年代に開発が開始され、現在も広く利用されているOS。開発当初は、トラブル対策や性能が高いレベルで求められる用途を中心に普及した)の開発・普及に愛好家たちが高い関心を向けはじめたころには、マサシも私もすでにその世界にいた。しかし。パソコン向けUNIXにはいくつもの種類がある。「FreeBSD」を選んだマサシと「Linux」を選んだ私には、二〇〇〇年ごろまで直接接する機会はなかった。  一九九九年、愛好家たちのコミュニティの交流会が催された。その時、名古屋でFreeBSD愛好家の集まりを運営していたマサシと、東京でLinux愛好家の集まりを運営していた私は、出会って名刺を交換した。おそらくは「気が合った」のだろう。距離感は急激に少なくなり、一か月に何回か長電話したり、毎日のように長いメールを交換したりする関係になった。その後、雑誌記事の共同執筆を行ったこともある。東京にやってきたマサシが、いわゆる「片付けられない女」である私の自宅を片付けに来てくれたこともある。といっても、恋愛感情はなかった。少なくとも、私にはまったくなかった。おそらく、マサシにもまったくなかったであろう。文字通りの「親友」であった。  日本のインターネット黎明期、民間にインターネットというものをもたらした人々の多くは、アマチュア無線の出身者だった。マサシは、その一人でもあった。中学時代、早くもアマチュア無線の世界に足を踏み入れていたマサシは、大学時代、月面の反射を利用しての遠距離通信に日本で初めて成功する技術力を誇っていた。また、アマチュア無線の国際コンテストでの入賞・優勝歴も数多い。しかし、それだけではなく、マサシは優れた語学力と国際感覚、それから、社会の公正さに関する先鋭な問題意識の持ち主でもあった。私が、日本の性差別的な環境に打ちひしがれて自暴自棄になるとき、また「それでも適応しなくては」と無理をして暗い気持ちになってしまうとき、マサシは海外の実例をあげて、その社会状況のおかしさを語った。そして、対処の手段があり「泣き寝入り」の必要はないのだということを、根拠とともに示してくれた。  建設的な「良き市民」であるマサシの真価は、災害などの非常時に遺憾なく発揮された。たとえば二〇〇〇年の東海豪雨の際、マサシたちFreeBSD愛好家のグループはアマチュア無線を活用し、避難所となった体育館にインターネット環境を整備した。さらにパソコンを設置し、不安な市民たちに通信と情報収集の手段を提供した。私は「好きで得意なことを提供することが、そのままボランティアになるのか」と、目を開かされる思いだった。  マサシは、二〇〇五年、二三歳年下のマナさん(仮名、当時二二歳)と結婚した。マナさんもまた私の友人の一人であり、二人の出会いのきっかけをつくったのは私であった。親しい友人たちから「犯罪」とからかわれる結婚をし、幸せな結婚生活に入ったマサシだったが、結婚直後、循環器に重い病気を抱えていることが判明した。以後、何度かの入退院を繰り返しつつも、マサシは充実した職業生活と幸せな結婚生活を続けていた。  二〇〇六年一二月のこの晩、二人の求めに応じて、中島みゆき『キツネ狩りの歌』を歌ったのを覚えている。もちろんこの時も、私は障害や車椅子を意識せず、幸せな時間を過ごすことができた。充実感と幸福感とともに、私は東京に帰った。  ちなみに、名古屋取材を行って執筆した測定器特集は、たいへん好評であった。二〇〇九年には、書籍『組込みソフトウェアエンジニアのためのハードウェア入門』(技術評論社)にまとめられた。また、東日本大震災の直後、環境放射線測定への関心の高まりを受け、私の執筆したパートのうち「測定器、使えてますか?」は出版社サイトで無償公開されることになり、現在に至っている(http://gihyo.jp/news/info/2011/04/1201)。多くの方々に、読んで役立てていただけたようである。まことに著者冥利に尽きる。 ★大学院に合格するも、親友マサシ死す  二〇〇七年は、大きなやりがいと共にある仕事と、希望につながるであろう大学院入試準備で明けた。そして二月、大学院入試。私は特に気負うことなく臨み、合格した。後に聞いたところによると、その時に社会人枠を受験した約五〇名のうち、合格者は七名だったという。かなり狭い門であったらしい。  問題は学費であったが、入学手続きとともに入学金免除・学費免除・奨学金申請の手続きを行った。結果が判明するのは二〇〇七年秋なので、少なくとも半年、金策の時間が稼げるということになる。  二〇〇七年三月には、季刊技術誌の編集部から「社会人の勉強について連載してほしい」というオファーがあった。障害にめげず、仕事をこなしつつの大学院合格が、読者にとって役立つ体験となると考えられたようである。また、若い読者にむけての連載のオファーを、信濃毎日新聞から受けた。現在も所属しているJASTJ(日本科学技術ジャーナリスト会議)に所属していた方が、縁をつないでくださったのであった。不安は尽きないものの、「たぶん、なんとかなるんじゃないか?」という根拠のない希望を持っていられた時期だった。  しかしこのころは毎日、二月末からまたも入院していたマサシの容態が気になり続けていた。マサシはこの三年近く、持病を悪化させては入院し、手厚い治療を受けて回復して退院することを何度も繰り返していたからだ。今度も、また生還するだろうと思いたかった。しかし毎日、マサシ自身とマナさんのブログから伝わってくる状況は、まったく楽観を許さないものであった。そして病状は、日々、悪化し続けていった。三月中旬には、ブログの更新も行われなくなった。私は、ときおりマナさんからかかってくる電話に応じる以外、こちらから積極的に連絡はせず、ただ奇跡を祈りつづけていた。  三月二五日、私の携帯電話が鳴った。マナさんからだった。良い予感はしなかった。覚悟を決めて電話に出ると、すすり泣きながら  「今、マサシさんが亡くなったの」 と言うマナさんの声が聞こえた。  私はすぐに名古屋に駆けつけた。夫妻のマンションの前で、マナさんと私はハグしあった。マナさんとマサシのたった三年間の結婚生活は、ほとんど闘病生活でもあった。私はマナさんの労をねぎらった。  マサシは、マンションのリビングに寝かされていた。お気に入りのパジャマを着せられたマサシは、私が泊めてもらうときにいつも使わせてもらっていた客用布団に寝かされていた。ただ、目を閉じて横たわっているだけであるように見えた。マナさんと私の話に「いや、それはね」と割り込んできそうな表情のまま、しかし動かずにいるマサシを前に、マナさんと私は、たわいもない四方山話を繰り広げた。  リビングに置かれている大きな書棚の上には、英語の盾があった。アマチュア無線の国際コンテストでマサシのグループが優勝した際に贈られたものであった。そこには「AH0K」という彼のコールサイン(無線で使用するID)が誇らしげに刻まれていた。数多くの業績を残したアマチュア無線家であり、OS「FreeBSD」に早くから注目して日本での普及に尽力したコンピュータ・エンジニアであり、必要に応じてできることをタイムリーに実行する優れた市民ボランティアであったマサシ、コールサイン「AH0K」こと桜田雅志、享年四七歳。  翌日は通夜だった。会場にはマサシの棺が置かれており、訪れた友人たちが思い思いに別れを惜しんでいた。セレモニーは何もなかった。格式張ったことを好まないマサシらしい通夜だった。すでに桜は満開に近づいていたが、ずっと病院の中にいたマサシは、その年の桜を見られたのだろうか? 私はピンクを中心にした花束を花屋でつくってもらった。そして花束をマサシの顔の上にかざして  「お花見まだでしょ? お花見してよ」 と話しかけた。  通夜の途中で、私は帰途についた。訃報を聞いて取るものもとりあえず飛び出してきたので、留守番をしている猫たちのために、葬儀は断念して東京に戻らざるをえなかった。  帰りの新幹線では、個室を利用させてもらうことができた。ドアを閉めると同時に、私は顔をぐしゃぐしゃにして泣き始めた。マサシのいなくなった世界で、私はどんなふうに生きていけるのか、マサシのいなくなったこれからの世界が、自分にとってどのようなものであるのか、想像もできなかった。ただ、大きな喪失感で、身体も心も壊れてしまいそうだった。 ●第5回 身体障害者手帳を求めて   目  次 三つの病院をかけめぐる日々 偶然の出会いから身体障害者手帳取得へ ヘルパー派遣で「水際作戦」に! はじめての自治体による調査、 そしてヘルパー派遣決定?  二〇〇七年三月。長年の親友であったマサシが四七歳で他界した。  自分の一部をもぎ取られたかのような悲しみと喪失感を味わう間もなく、国立北関東マンモス大学の大学院博士課程での大学院生生活が始まろうとしていた。  そこに大きな障壁となって立ちはだかったのは、身体障害者手帳が取得できていないという問題だった。  二〇〇七年二月下旬、大学院の合格通知が私の手元に届いたその日の夕方、北関東マンモス大学の学生課から電話がかかってきた。  「学生宿舎を利用しませんか?」 という申し出だった。  私は社会人大学院生としての入学だったため、指導を受けるときだけ大学に通うことが可能だった。しかし、電車二本とバスを乗り継いでの通学には、片道三時間三〇分が必要だった。車椅子を利用している私は、乗り換え一回につき、平均で二〇〜三〇分を必要とする。北関東にある大学への日帰り往復は、かなり苦しいものがある。そこで、私は学生宿舎を利用することにした。  北関東マンモス大学は、障害学生支援で日本をリードする位置づけにある大学の一つでもある。電話の向こうの大学職員は、大学に用意されている数多くの障害学生支援について語った。ありがたいことである。しかし、利用するには身体障害者手帳が必要ということであった。身体障害者手帳が取得できていない場合は、身体の障害について証明する医師の診断書が必要。公金を用いての障害学生支援である以上、一定の根拠によって、必要な学生に提供される必要があることは当然だ。それは理解できる。  しかし、私から見れば、医師が身体障害について証明してくれないのであれば、私は目の前に指し示されている大学の支援につながることができず、おそらくは大学院での研究生活にもたどりつけないということだった。  二〇〇五年秋に身体障害が発生して以来の約一年半、私は目の前の困難に立ち向かうことで精一杯だった。そして、「身体障害者手帳を取得する」という課題は、困難すぎるため先送りされていたのであった。私には運動障害はあるものの、原因疾患が現在に至るも不明なままだ。そしてこの時期、原因疾患不明での障害認定は、年々、困難になりつつあった。 ★三つの病院をかけめぐる日々  私はまず、住まいからそれほど遠くない「カンオケ病院」に行ってみることにした。二〇〇六年二月、カンオケ病院には約二週間の検査入院をした。結局、運動障害の原因は判明しなかったけれども、「障害者手帳を取得するなら第一の選択肢はここだろう」と思ったのだ。  この時の医師との会話はよく覚えていないのだが、日常生活上の困難や、ヘルパー派遣や補装具の助成がなければ生活が破綻するだろうということを訴える私に対し、医師は「工夫して」「努力して」「身近な人に助けてもらって」というような言葉と、「運動障害を示すデータがないから、障害者手帳を取得するための診断書は書けない」という結論を繰り返すのみだった。私は  「ここで障害者手帳を取得するのは無理だ」 ということを認識せざるを得なかった。  「そういうことだったら、神経の問題なんだから、セキヅイ病院に行ってみては」 というアドバイスをしてくれた人がいた。私は東京都の西部にあるセキヅイ病院に行ってみた。筋電図・MRIなどの検査の後、医師は  「これはヒステリーだから、精神科で治療してもらいなさい」 と言い放った。ここでも、身体障害者手帳の取得は無理だった。  途方に暮れた私は、東京都下の近隣の市にある障害者自立生活センター「ぴぽぱ」(仮名)に電話をして相談してみた。男性の相談員が親切に相談に乗り、私の話を聞いて  「直接に何か力になれることは今のところないのですが、近々、高次脳機能障害のシンポジウムを開催します。その時にシンポジストの医師に相談されてはどうでしょうか」 というアドバイスをくれた。私はそのシンポジウムに参加してみることにした。  シンポジウムの内容は、疾患・事故などさまざまな理由で、さまざまな内容の高次脳機能障害を抱えることになった人々の日々の生活、支援する立場の人々の悩みや試行錯誤、医師としての意見、といったものであった。  「まあまあの健康に恵まれての『ふつう』の平穏な生活は、なんと簡単に崩壊してしまい、大変な生活に陥ってしまうものなのだろうか」と、自分のことは棚に上げて痛感したのを覚えている。とはいえ、細かい内容は覚えていない。私は自分自身の困り事で精一杯だったからだ。そして、その時にいちばん衝撃を受けたのは、残存能力のありようも内容もさまざまな成人たちが、「高次脳機能障害」という障害を背負ったことによって、「ふつう」の成人の世界や職業人の世界から追い出され、プライドが傷つかないかと心配になるような生活訓練やデイケアでの「仲間」との時間を、支援者たちに「支援してもらう」ことによって過ごすしかなくなるという事実であった。なぜ、その人の生きてきた人生、その人の残存能力、その人自身の指向性に沿って「少しでもQOLが高い、その人らしい人生」を組み立てなおす方向には進まないのだろうか? 衝撃と怒りのような感情とともに、そう思った。  今の私は、「障害者になれば障害者らしさを強いられ、屈辱とともに受け入れるか、闘って消耗するかしかない」という日本の情けない現実に「慣らされて」しまったので、衝撃も怒りも感じていない。もちろん、その現実は良いことではないし、変わっていくべきでもある。しかし「現時点ではそういうものである」ということを受け入れなければ、日常を営むことも、変えていくための働きかけをすることもできない。それでも、「なぜ?」という思いは今でも抱き続けている。昨日までは「ふつう」の人だったその人が、障害を抱いたとたんに「障害者」にされ、「障害者の世界」に押し込められる。それは、当事者にとってはカフカの小説『変身』の世界だ。『変身』の主人公の青年は、ある日、目が覚めたら巨大な芋虫になっていた。青年の内面は何一つ変わらないままなのに、見た目が芋虫になった青年は家族から疎んじられ、差別され、最後には衰弱死させられる。障害者になった私も、芋虫になった青年のようなものなのだろうか?    話をシンポジウムに戻す。私はシンポジストの医師に近寄って自己紹介し、事情を話した。  「そういうことだったら、ウチの病院の優秀な神経内科が役に立てると思うから」 ということだった。私は期待をもって、医師の勤務先であるノウヅイ病院(仮名)に行ってみた。そこで私を診察した医師は、最初は非常にシンパシーをもって私の話を聴いていた。しかし、セキヅイ病院での話と医師の名前を聞いて表情と口調を変え、  「あの先生がそう言うんだったら、そのストーリーに乗って治療を受けてみたらどうですか?」 と言った。私が必要としているのは、目の前の大学院生活を将来の進展に結びつけていくことであり、そのための身体障害者手帳である。医師の「ストーリー」にかみあわせるために自分を擦り減らす余裕はない。でも、おそらく、目の前の医師は、セキヅイ病院の医師に逆らうことができない何らかの事情を持っている。自分に何が必要かをここで主張しても、おそらく意味はないだろう。  私は暗い気持ちになって、ノウヅイ病院を後にした。 ★偶然の出会いから  身体障害者手帳取得へ  二〇〇七年三月下旬のある日、私は地下鉄に乗って、都心のスノッブな街にある精神科クリニックに向かった。二〇〇〇年から継続している定期通院であった。  私が乗った次の駅から、同じ電動車椅子の女性が乗ってきた。年のころは五〇歳前後と見受けられた。女性はにこやかな笑顔で、私に「こんにちは」と話しかけた。どちらかといえば人見知りの私であるが、その女性に話しかけられたとき、不快な感じはまったくなかった。私も「こんにちは」と挨拶した。それから、自然な流れで会話となった。互いに、これからどこに何をしに行くのか、仕事は何なのか、障害はいつから……?  私は率直に、二〇〇五年に運動障害が発生してからのこと、身体障害者手帳が得られなくて大変困っていることを話した。女性は  「まあ、それは困るでしょう? 車椅子だって自費ですよね? ヘルパーさんも来ないんですよね?」 と、私が抱えている困り事を、聞かれるまでもなく次から次に列挙した。そして、  「私の主治医、ダイガク病院(仮名)の先生に見てもらったら?」 と言ってくれた。私は、この初対面の女性、エミさん(仮名)の好意をありがたく頂戴することにした。  あとで知ったことだが、エミさんは生まれつきの遺伝子疾患のため一〇代で障害者となった。現在五〇代半ばのエミさんの障害キャリアは約四〇年、進行していく障害と折り合いながら発展させてきた職業キャリアは約三五年。障害と、障害者のキャリア構築の大先輩のようなものだ。そして私は、エミさんの経験・知恵・人脈に、その後どれだけ助けられたか。感謝の言葉もない。  とはいえ、カンオケ病院・セキヅイ病院・ノウヅイ病院での経験を総合すると、ダイガク病院にもあまり期待できそうな気がしなかった。私は  「今度もダメだったら、どうすればいいんだろう」 と途方にくれつつ、新宿区にあるダイガク病院を訪ねた。  ダイガク病院のエミさんの主治医は、五〇代と思われる落ちついた物腰と柔らかい話し方の女性だった。私は、その医師と看護師たちに腱反射・運動能力などの検査を受けた。私の身体は、まるでデリケートな生身の身体であるかのように扱われた。同じような検査は他の病院でも受けたのだが、私の身体はぞんざいに、無神経に、ときには薄笑いとともに扱われていたのだった。  いずれにしても、神経内科での検査が必要だったので、同じダイガク病院の神経内科で改めて検査を受けることになった。私は何回目だかもう数えてもいないMRI検査や筋電図検査を受けた。またもや、原因疾患らしきものは発見されなかった。  「少なくとも、神経内科的疾患である可能性は非常に少ないです」 と説明する神経内科医の前で、私は  「やっぱり、そうですか」 とうなだれた。予想されたことだ。それまでもカンオケ病院・セキヅイ病院・ノウヅイ病院で、内容的には同じような説明を受けたではないか。落ち込むな。そう自分に言い聞かせているとき、神経内科医は  「でも、お困りでしょう?」 と言葉を継いだ。私は顔をあげて  「え?」 と驚きの声を漏らし、慌てて  「はい、もちろん、とても、本当に困っています」 と言った。  神経内科医は、私の生活ぶりの実際について、いくつかの質問をした。それから、診察室で行える範囲で、運動・能力・腱反射などのテストをした。二〇〇六年二月以来失われたままだった膝蓋腱反射については、何通りかの方法が試され、非常に限られた条件においてのみ現れることが判明した。そして医師は立ち上がり、診断書用紙を何種類か持ってきて、記入をはじめた。  私はこのようにして、身体障害者手帳を申請するための診断書と、障害年金を申請するための診断書を得ることができた。二〇〇七年当時、原因疾患不明での障害者手帳の申請は、非常に困難になっていた。しかしダイガク病院の神経内科医は、原因は「不詳」としたまま、症状を主内容とした診断書を作成してくれた。申請を受けた東京都とダイガク病院とのあいだには大変なやりとりがあったらしいが、とにもかくにも二〇〇七年七月、私は身体障害者手帳を取得することができたのだった。  それにしても、地下鉄の中でのエミさんとの出会いがなかったら。その出会いがあったとしても、時期が二〇〇八年以後だったら。私は現在、どうなっているだろうか?  二〇〇八年春、北海道で多数の自称視覚障害者・自称聴覚障害者が、障害年金や生活保護費の障害加算などを不適切に受給していた事件が報じられた。それはそれで問題ではあるけれども、メディアでの騒がれ方は必要以上に扇情的であるように感じられた。  そしてこの事件以後、原因が不明のままでの障害者手帳取得は、ほぼ不可能になっている。「適正化」の名のもとに、障害がありながら障害者福祉を利用することのできない多くの人々が、日々、困難に直面しつづけ、さまざまな意味での「自立」から遠ざけられつづけている。 ★ヘルパー派遣で「水際作戦」に!  身体障害者手帳を取得する前の二〇〇七年一月、私は精神障害者保健福祉手帳(精神障害者手帳)を申請していた。そして三月には、手帳を取得することができた。  精神障害者手帳を取得することには、数多くのデメリットがあり、メリットらしいメリットは少ない。しかし私は、二〇〇五年九月以来続いていた「障害者でも健常者でもない」という状態に、つくづく疲れ果てていた。「健常ではない」という状態に、何らかの公的なレッテルが欲しかった。それに、精神障害者として認められれば、障害者としてヘルパー派遣を申請する道が一応は開ける。  私は二〇〇七年三月、精神障害者手帳を手にするとともに、現在も在住している東京都アケボノスギ区(仮名)の保健所の中にある精神障害担当窓口を訪れ、ヘルパー派遣を申請しようとした。ところが、窓口にいた男性職員は、  「ヘルパーに家事をやってもらえるんじゃないんだよ、ヘルパーに指示されるままに、あなたが動かなくちゃいけないんだよ」 という。なぜ、身体に障害のある私が、ヘルパーの指示によって家事をしなくてはいけないのだ? そう問うたところ、返事は  「だって精神障害者としてヘルパー派遣を申請したいんでしょう?」 というものだった。  私は、精神障害者・精神疾患者の団体「全日本『非正気』集団」の役員・マキさんに相談した。マキさんは、父親が私を福岡に連れ戻そうとたくらんで精神科の主治医の協力も得ていたとき、私が東京にとどまれるように協力してくれた人だ。  「それはあなた、水際作戦に遭ってるのよ。誰か連れて行って、もう一回申請しては」 というアドバイスを受けた私は、知り合いの男性・ツルギ氏(仮名)についてきてもらうことにした。  「水際作戦」とは、申請によって開始される各種行政サービスの申請を、行政が妨害することである。申請できなければ、利用が可能になるはずはなく、サービスは開始されない。この水際作戦が生活保護で広く行われていることは、さまざまな報道によって知られるようになってきている。しかし生活保護のみならず、障害者福祉も含め、行政が「福祉目的でお金を出す」という場面のすべてに水際作戦の可能性がある。  当時五〇代前半だったツルギ氏は、うつ病によって失職し、私に接触してきた。二〇〇三年ごろのことだった。私はライターとしてのインタビューのつもりで、ツルギ氏の病気と生活についての話を聞いた。その後も、メールでの会話が継続していた。私の身体障害が発生してだんだん重くなっていくと、ツルギ氏は「友人として役にたちたい」「ボランティアさせてほしい」という名目で接近してきた。  私は後々、大いに後悔することになるのだが、二〇〇七年三月以後は、とにかくツルギ氏の好意を受け入れるしかない状況が続くことになった。いくつもの病院への通院、アケボノスギ区へのヘルパー派遣の申請、国立北関東マンモス大学の入学式……。公的に介助を受けることが未だできていない以上、私は身近な人間関係から介助を得るしかなかった。そして、車椅子を押すことを含む力仕事にある程度対応できて、平日の日中に時間を取ることが可能なのは、当時、無職のツルギ氏くらいしかいなかったのだ。    同行や介助を依頼するたびに、ツルギ氏の言動はだんだん横柄にワガママになっていった。私には運動障害があり、至近距離に男性がいて、その男性が横柄でワガママである。しかも、その横柄でワガママな男性のゴキゲンを損ねたら、自分がすぐに困ることになるため、とにかくこちらは下手に出て懐柔しつづけているしかないのだ。  この時期、二〇〇七年三月のツルギ氏は、ただ単に横柄でワガママなだけだった。まだ対応のしようがあった。この後、ツルギ氏はだんだんなれなれしくなり、私との距離を詰めようとしてきた。たまりかねた私が警察沙汰にしたところ、ツルギ氏はいわゆる「逆ギレ」をして大変なことになったのだが、それは五か月後の二〇〇七年八月のことである。  私の方は、してもらったことに対しては、そのつど感謝を表明していた。交通費や飲食代も支払った。それは当時の私にできる精一杯であった。しかし、おそらくはツルギ氏にとっては「赤字」の人間関係なのであり、ツルギ氏の中では「黒字」化するための大義名分があったものと思われる。それが私に対して接近する・なれなれしくする・見下す……といったことだったのであろう。「ボランティア」を自称するツルギ氏、当初は本当にボランティア精神から助力を申し出てくれたのかもしれないツルギ氏は、この時期、明らかに私を「自意識を満足させるための道具」として利用しはじめていた。  「通りすがりにちょっと手を貸す」を含めて、さまざまな「ボランティア」を受け入れなければ、障害者の生活は成り立たない。しかしその「ボランティア」を受け入れることは、障害者にさまざまな危険や脅威をもたらす可能性もある。結局のところ、「公助」抜きの「共助」は成り立たないのだ。このことについては、次回以後に改めて述べたい。  二〇〇七年三月下旬のある日、ツルギ氏とともに、私はアケボノスギ区保健所を再度訪れた。窓口には、四〇歳前後と思われる女性職員が一人いるだけだった。私たちをにこやかに迎えた女性職員は、用件が介護給付(ヘルパー派遣)の申請であると知ると、表情を険悪にし、  「申請できるかどうかわかりませんから、とにかく相談を」 と声をはりあげた。私は  「いえ、申請にきたんです、申請書を出してください」 と繰り返し、女性は  「申請できるかどうかわかりませんから、とにかく相談を」 と繰り返した。途中、携帯電話で「全日本『非正気』集団」のマキさんに相談し、女性職員に電話機を渡してマキさんと会話してもらったりしたものの、女性は  「相談しなければ申請できるかどうか分かりませんから、とにかく相談を」 と繰り返すのみだった。  そうして小一時間が過ぎた。私は、窓口でのやりとりを手持ちのレポート用紙に女性職員の名前とともに書き留めて立ち去るしかなかった。  帰宅後、すぐにマキさんに電話した。マキさんは  「これは水際作戦のよくあるパターンなんだけど、あまりにも対応が悪質だから、アケボノスギ区の障害福祉課に相談してみては」 とアドバイスした。  「でも、どう言えばいいんですかねえ?」 と弱気になる私に、マキさんは  「『申請できないのは違法ですから申請させてください』と言えばいいんです、あなたには申請権があるんですから」 と力強く言った。  翌日、私はアケボノスギ区の障害福祉課に電話した。何回か、部署間で  「それはこちらではありません」 と電話を転送された後、私は担当部署の職員と会話することができた。私が  「申請もできないのは違法ではないでしょうか」 と言ったところ、職員は  「窓口の職員が申請をさせないということはありませんが、とにかく申請できるように言っておきます」 と言った。現に、私は申請を実質的に阻まれているのだけれども。  数日後、私は一人でアケボノスギ区の保健所を訪ね、特に何も言われることなく申請を行うことができた。対応したのは、最初に  「あなたがヘルパーに言われて動くんだよ」 と言った男性職員、ノウチ氏(仮名)だった。奥には、先日の攻防戦の相手であった女性職員、ヒタ氏(仮名)が立っていた。大変おもしろくなさそうに、私を睨みつけていた。 ★はじめての自治体による調査、  そしてヘルパー派遣決定?  二〇〇七年四月半ば、ヘルパー派遣を開始するにあたって、障害の程度や必要な時間数を判断するための調査を目的として、私の住まいに二名のアケボノスギ区職員がやってきた。ノウチ氏と、はじめての女性職員だった。私はマキさんのアドバイスに従い、友人二名を同席させていた。古い友人のイツコと、同じ作曲家にピアノと作曲を師事していたトヨナカ氏(仮名)だった。高校三年の一学期まで音楽大学へ進学して作曲家になろうと考えていた私にとって、音楽の訓練は必要不可欠な栄養素のようなものだ。現在でも、たまにではあるが、ピアノと作曲のレッスンに通うことは続けている。  アケボノスギ区職員たちの態度は、剣呑としており高飛車だった。  「ヘルパー派遣を利用しようとする障害者なんか、潰してやる」 という意気込みを感じるほどだった。私はただ、障害による不自由を補うためにヘルパーを必要としているので、申請しただけなのだが、それはアケボノスギ区にとっては、あってはならないことであったらしい。アケボノスギ区職員たちは、尋問、あるいは詰問といった調子で、障害者自立支援法(当時)に定められた一〇六項目の質問を行った。ただ障害の程度や日常の困り事を聞くために、なぜそんな口調が必要なのだろうかと不思議に思ったが、こちらは応えるしかなかった。  指の障害の程度について答えていたときのことだ。私は  「末梢にいくほど力が入りにくく、手の指先で行える動作は多くない」 という当時の(現在も)状況を述べた。するとノウチ氏が  「そのペットボトルは、どうやって開けたんですか!」 と、私の傍らにあったペットボトルを指さして怒鳴った。私は  「これは親指と人差し指の間の付け根で開けたんですよ」 と、事実ありのままを答えた。ノウチ氏は表情に怒りを表し、次の質問に移った。調査そのものは、剣呑な雰囲気のもと、一時間ほどで終了した。  二週間ほど後、結果が出た。障害程度区分は六段階のうち軽い方から三つめの「3」、認められたヘルパー派遣の時間数は一か月あたり一四時間。ノウチ氏によれば  「これでも、よくしてるんですけどねえ」 ということであった。精神障害の場合、障害程度区分は「3」以上にはならず、なおかつ一か月あたり一四時間という時間数は、障害程度区分「3」で出せる最大限の時間数であるということだった(現在は、障害程度区分「3」のまま、一か月あたり約五〇時間のヘルパー派遣を受けている)。  それもこれも、身体障害を持つ私が、精神障害者手帳しか持っていないからであろう。当時の私は、そう考えた。  目先の問題は、すでに始まっていた国立北関東マンモス大学の学生宿舎と東京の住まいでの二重生活であり、大学院での研究生活をなるべく早く軌道に乗せることであった。  「東京の住まいでヘルパー派遣を受ける」 ということに、なるべく時間や労力を割きたくなかった。命あっての生活、生活あっての仕事であり研究なのだが、私は一足飛びに、研究、そして仕事の世界で成功して、自分と二匹の猫たちの生命と生活を守ろうとしていたのだった。  さらにもう一つ、大きな問題があった。一か月あたり一四時間という時間数では、ヘルパー派遣を引き受けてくれる介護事業所を見つけることが難しい。  アケボノスギ区が作成したプランによれば、私は平日、一日あたり三〇分のヘルパー派遣を受けることにされていた。一日あたり三〇分のためにヘルパーを派遣する事業所はない。おそらく、この時間数とプランの背後には「ヘルパー派遣を実際には利用できないようにする」という意思があったのだろう。時間数があまりにも少ないので介護事業所を見つけることができずにいると、当然のことながら、せっかくの介護給付を利用できない。すると「利用実績がない」という理由で介護給付自体が停止される。精神障害者に対するヘルパー派遣では、このような事例は珍しくない。「介護給付、一か月あたり三時間」といった決定を行い、当事者の前で自治体職員がニヤニヤしながら  「これじゃ介護事業所は見つけられないでしょうけど、見つけられるなら見つけてください」 と言った事例もあると聞く。  私は介護事業所探しを焦らず、身体障害者手帳の交付を待つことにした。身体障害者手帳の交付を受けてから、再度、介護給付の時間数変更を申請するという作戦を考えたのだった。方向性としては誤ってはいなかったと思う。しかし私は、当時の、そして現在も続くアケボノスギ区の障害者福祉削減の動きを、まったく甘く見ていた。  そんな中で、私は五月、六月と、新しい連載を開始した。技術者向けのWeb媒体でのハードウェア技術入門と、信濃毎日新聞での青少年向け連載「いまの私にできること」であった。間もなく、技術者向けの別の季刊誌で、社会人の勉強に関する連載「他人には教えたくない勉強のしかた」も開始した。隔週刊・月刊・季刊の三本の連載での報酬の合計は、一か月あたりにすれば一一万円程度。これだけで生計を立て、二匹の猫たちを養いつつ、国立北関東マンモス大学の学費を支払うことは不可能だ。しかし間もなく、日本学生支援機構の第一種奨学金の貸与が開始された。奨学金は借金であるとはいえ、目先の生活は、当面、なんとかなる見通しがついた。また、大学院の入学金・授業料も、半額は免除された。  国立北関東マンモス大学の大学院への進学、奨学金・学費免除などの成果については、福岡の父親も  「ああ、重く受け止めてるよ」 という言葉を発した。「重く受け止めた」ので、私が自分の意思で自分の人生を発展させることを支援する、あるいは黙認するのか、あるいは「重く受け止めた」ので、私をあくまでも早期に惨めに叩き潰さねばと考えたのか。この時点では、なんとも判断しがたいことであった。とりあえず、国立北関東マンモス大学に学籍がある間、私が強引に福岡に連れ戻される可能性は少ないと見ることだけはできそうだった。  とにもかくにも、友人たち・知人たちの多大な負担のもと、私の生活はなんとか維持され続けていた。もしも、関係する全員が「幸せになれる」状態を長期に維持していくことが可能なのであれば、それはそれで悪い状態ではなさそうな気がした。「共助」があれば「公助」はいらない、といえる状態を長期に維持することは原理的に不可能なのであるが、そこに考えが及ばないまま、危ういバランスの上に生活を成り立たせながら、二〇〇七年夏へとさしかかろうとしていた。 ●第6回 留守中に侵入者  〜ヘルパー派遣の開始前、そして開始後   目  次 カネも公的介助もなければボランティア? 留守中に上がり込むのが「普通」? ブログに執拗なコメントが ヘルパーは来たけれど  二〇〇五年に運動障害が発生した後、二〇〇七年夏に身体障害者手帳(二級)を取得するまで、私は公的には、身体障害者福祉の対象となっていなかった。電動車椅子は、自分で費用を払ってリース品を利用していた。ヘルパー派遣(介護給付)は申請したものの、一か月あたり一四時間という少なすぎる時間数。  二〇〇七年初夏の私の生活は、身近な友人たちのボランティアによって、かろうじて営まれていた。 ★カネも公的介助もなければ  ボランティア?  高校卒業以後のほとんどの時期、私は楽しい友人関係の中にあった。二〇〇五年に障害を得た当時も、二〇〇七年に障害者手帳を取得して障害者(公認)となった時期も、もちろん現在も。  私に運動障害が発生すると、数多くの友人たちが心を痛めてくれた。そして、有形無形のさまざまな支援を提供してくれた。それは、掛け値なくありがたいことだった。しかし、長続きさせることは困難だった。  友人たちがボランタリーに提供できる時間・労力その他のリソースには、限りがある。いつ、どの程度のリソースを提供できるかは、友人たちの公私ともの事情による。もしも、友人たち本人が  「みわちゃんを優先順位の上位に置きたい」 と考えてくれたとしても、いつもそれが可能とは限らない。  無理少なく長続きさせるためには、何らかの形で、友人本人を支える必要がある。短期間のことであれば、それは私からの感謝の言葉や表情であったり、ともに過ごした時間の幸せな記憶でも充分なのかもしれない。しかし、月単位・年単位のボランティアを「無償」で継続させることは不可能だ。なぜなら、それは、ボランティア本人からの「収奪」にほかならないからだ。他の目的にも使うことができるはずの交通費や時間、気力に体力。こちらにどれほど困難な事情があるといっても、「ボランティア」という名目で奪い続けてよい理由はない。ボランティアを申し出てくれる友人・知人たちには、何らかの形で「リターン」を用意する必要がある。そうしなければ、最終的には喧嘩別れになるだけだ。  私はこのことを、運動障害が発生した二〇〇五年冬にはすでに自覚していた。だから、  「いいよ、お互いさまだし」  「いいよ、ふだんの付き合いの範囲じゃないの」 と掛け値なく言われて  「それじゃ、ありがたくお世話になるね」 と答えられるような非常に少ないケースを除き、友人・知人たちには何らかの形で「対価」を支払うようにしていた。その「対価」は、ある時には飲食費であった。ある時には、高価な専門書であった。ある時には、長時間にわたる悩み事の相談に乗ることであった。しかし、私は経済的にはむしろ困窮に近い状態であった。時間的にも、それほどの余裕はなかった。仕事も、大学院博士課程での学業も抱えていた。泣きそうになりながら、それらの「対価」を支払っていたのだった。  そもそも、日本の障害者に対して、公的介護保障が存在するようになってからの歴史は長くない。一九八〇年代まで、日常的に介助を必要とする障害者たちは、家族のもと、または施設で生涯を終えるしかなかった。親の家や施設を出て地域で生活したいと望むならば、自ら介助を確保する必要があった。とはいえ、公共が介助のための費用を用意していたわけではないし、その障害者たちの多くは、生活保護を唯一の収入源としていた。生活保護の生活扶助費の障害者加算に「他人介護料」(介護人をつけるための費用)が加わる以前、障害者たちは、必要とする介助のすべてをボランティアから得るしかなかったのである。朝から晩まで、不自由な身体で、ボランティアを確保するために電話をかけることに追われるのが、当時の典型的な障害者の生活であったとも聞く。  二〇〇七年までの私は  「そんな時期だって障害者は生きてたんだから、私も同じことをすれば生きられるだろう」 と思っていた。それは事実ではあるかもしれない。しかしそれは、  「職業にも学業にも使うことのできるはずの自分自身の時間・気力・体力を、ボランティア確保のために使う」 ということであった。公共が提供しない障害者福祉の穴を、私は自分自身の「ボランティア」によって「ボランティア」を確保することで埋めようとしていた、ともいえる。  さすがに限界を感じたので、二〇〇七年三月、現在も在住するアケボノスギ区(仮名)の福祉事務所で介護給付(ヘルパー派遣)を申請した。しかし二〇〇七年から二〇〇九年まで、私が得ることのできていた介護給付は、一か月あたり一四時間であった。一日あたりにすれば三〇分にも満たない。相談に乗ってくれていた障害者運動家たちは、  「生活どころか、生存にも足りない」 と呆れた。たしかに、足りない。でも、その足りない分を、今、どうすればいいのか。はっきりしているのは、私は今後も、ボランティアに頼らなければならなさそうだということであった。  そして二〇〇七年八月六日、大きなトラブルが起こった。外出先から帰宅してみると、猫たちしかいないはずの家の中に人がいたのである。それまで何回か、本人の「ボランティアとして役に立ちたい」という申し出によって、通院などの行動を支援してもらったことのある男性・ツルギ氏(仮名、当時五〇歳代)であった。 ★留守中に上がり込むのが「普通」?  二〇〇七年の七月から八月にかけて、私は気管支喘息の発作を一〇回近く起こし、五回ほど救急搬送を受けた。幼少時から気管支喘息を持病としていた私は、発作を起こさないように日常生活に注意を払っていた。家の中を舞い飛ぶ猫の毛や猫のフケはどうしようもないけれども、  「気管支周辺に違和感を感じたら、水分を充分に摂取し、就寝時はうつ伏せに寝る」 という簡単な対処によって、九歳を最後に、発作のない状態を長年維持することができていた。しかしこの四四歳の夏は、私がはじめて、車椅子の上で長い時間を過ごした夏といってもよかった。  前年、二〇〇六年の夏は、ほとんど引きこもって過ごしていた。夏、車椅子で頻繁に外出する経験をしたのは、この二〇〇七年が初めてだった。二〇〇七年四月に進学した、茨城県にある国立北関東マンモス大学と東京の住まいの二重生活。博士課程への進学であったから、研究に必要な書籍などを購入するための外出も必要になる。車椅子で利用できるトイレ情報は、まだ充分につかんでいない。いきおい、水分摂取を必要最小限にしようと心がける。しかし炎天下だ。当時の私はしばしば喘息発作をおこし、そこではじめて自分が脱水していることに気がつくというありさまだった。  ひと夏に五回もの救急搬送を受けた私は、救急隊の便宜のため、通りから見えない大きな窓を一つだけ、施錠しない状態にしていた。 ツルギ氏は、それを見つけて入り込んでいたのであった。  その日は、長年お世話になっている、NPO「もやい」と協力している便利屋「あうん」から、便利屋さんが来ることになっていた。   一か月あたり一四時間という介護給付の時間数は、介護事業所にとってもメリットが少ない。福祉事務所の担当ケースワーカー(当時)K氏が「見つけてあげました」と紹介した介護事業所「リレーションシップ(仮名)」の責任者マサカさん(仮名)は、我が家にやってくるなり、  「片付けて洗濯機を置いてくれないと、ウチのヘルパーを働かせることはできません!」 と宣告した。しかたなく、私は有料で便利屋さんをお願いし、片付けを行い、中古の洗濯機を購入した。それまで、洗濯は手洗いであったり、コインランドリー利用であったりした。  ツルギ氏は、私のブログのコメント欄で、 sirius‐b2007/08/0323:14 大学の前期試験が終わりました。明日から2週間暇なので、お手伝いできることがありましたら連絡してください。携帯電話で結構です。 たまには猫たちとも遊びたいのでよろしくお願いします。   と申し出た。なぜ、個人の連絡にブログのコメント欄を使ったのか。理由は明確にはわからないのだが、  「そこなら断られにくいだろう」 と考えたのかもしれない。  ちなみにツルギ氏は当時、私の出身大学に在学していた。そして、それを理由にして私に接近してきたのであった。  大学で地球科学を専攻したあと、しばらくは原発の建造予定地の地盤の調査に従事していたツルギ氏は、その後、一九九〇年代後半に人手不足で高い収入を得やすかったIT業界に転職。長くても半年程度の職歴を繰り返し、最後の勤務先で適応障害を発症。私と知り合った当時は無職で、リハビリを兼ねて、私の出身大学の夜間部に在学していた。ちなみに、大学時代は勤労学生だった私も、その同じ夜間部の出身である。  さらにツルギ氏は、ボランティアと称して私に近づき、さまざまなことをした。もちろん、「車椅子を押す」といったこともしたのだが、段差を力任せに越えるので、私は車椅子から落ちそうになったり、膝などの関節に痛みを覚えたりなどした。行き先についても、ツルギ氏はマイペースで行動したがり、私のニーズは二の次だった。路線バスがあり、あと数分で来るという場面でも、タクシーに乗りたがった。そして、私に身体をすり寄せては、自分の自慢話を一方的に展開するのであった。ただただ、気持ち悪かった。  私は何回も「もうお願いしません」「もう連絡しないでください」と言った。ツルギ氏はそのたびにキレた。そして、  「おやじのいい加減さ」 などと自称しつつ、また接近してくるのであった。ひたすら、気持ち悪かった。  話を、この夏の午後のことに戻す。私は怒りを感じたが、とりあえずは平静を装って  「あら、いたんですか」 と答えた。この男が、住まいの中で暴れて猫たちを傷つけでもしたら、大変なことになる。足元では、一〇歳のお姉ちゃん猫が不思議そうに私の顔を見あげていた。九歳の弟猫は、物陰からそっと私たちを見ていた。  ツルギ氏は  「早く来ちゃって、外は暑いからさあ、ここで涼んでたんだよ」 と答えた。そういえば、私が外出するときには切ってあったエアコンの電源が入れられている。  「ドアには鍵がかかってたでしょう?」 と聞くと、  「周囲を一周してみたら、鍵のかかってない窓があったから」 という答えだった。悪びれる風はまったくなかった。  まもなく、「あうん」の便利屋さんがやってきた。馴染みの女性の便利屋さんとツルギ氏と私で、住まいの中を片付けた。そして、便利屋さんは帰っていった。  私は、  「そろそろ夕方だから食事に行きませんか」 と声をかけ、ツルギ氏を外に連れ出すことに成功した。そして最寄り駅の改札近くで、  「黙って上がり込むなんて、もう二度とやめてください」 とツルギ氏に言った。さらに、  「オレの町(東京都西部)では、留守中に知り合いが上がり込んだからといって文句を言わないのが常識」 と主張し続けるツルギ氏に  「もう来ないでください、メールも電話もよこさないでください」 と絶交を宣告した。 ★ブログに執拗なコメントが  その数日後、外に置いていた車椅子がパンクしていた。修理したところ、またすぐにパンクしていた。それがツルギ氏のしわざであるのかどうかは不明だが、私は最寄りの警察署にツルギ氏の件を相談した。この翌年の二〇〇八年、私は同じ警察署に生涯消えないであろうトラウマを背負わされることになるのだが、この時の警察署は迅速に対応し、すぐにツルギ氏に「もう、みわさんに連絡しないように」と申し入れたとのことである。  翌朝、私のブログのコメント欄は、ツルギ氏のコメントで溢れかえっていた。IDがさきほどの「sirius‐b」と異なるのは、ツルギ氏が問題を起こすたびに新しいIDを取得していたためである。ここに、そのコメントをそのまま掲載し、私の解説を加える。 TURUGI29982007/08/1303:58 私は三輪さんと縁を切りたいだけです。無関係の他人として生活したいだけなのに、なぜストーカー扱いされなければならないのだ。警察まで巻き込まないでほしい。あなたの顔もみたくないので絶交といっただけだ。せっかくアルバイトも決まったのにこれでクビになったら告訴するから、逃げるなよ。あなたが私に文句を言う以上に私はあなたを助けているはずだ。それも無視して私を犯罪者扱いするのか。あなたは被害妄想が強くて他人のすることをすべて曲解するいい根性をしているな。国立北関東マンモス大学(仮名)のときも私があなたに頼まれたのだ。腰を痛めてまで車椅子を押したのにそれでも文句をいってきたのにはおどろいたよ。あなたは他人に何をされても感謝することがない。さも当然のようにかまえている。はっきりいってあなたはおかしい精神障害、に人格障害も入っている。あなたは他人に食事をもらってもありがとうもご馳走様もいわない。部屋の片付けをしてもご苦労様の一言も聞いたことがない。まともにお礼をいうことができないらしいね。私のおにぎりを霞を食ったことにされたのには、驚いた。絶対お前の家なんかに近づかない。私にそんな暇はない。ふざけるのもいいかげんにしろ。  私は、礼はそのたびに述べていたはずだ。感謝の意思も表明していたはずだ。しかし卑屈にはならない。それが「当然のようにかまえている」というツルギ氏の反応になったのだろうか? TURUGI29982007/08/1304:13 私のプライバシーを警察に話す必要はない。なぜ私を犯罪者扱いする。それは人権侵害だ。わたしはあんたの周りをうろつく趣味もないしそんな暇もない。私が電話をかけて怒ったのはなにもしないうちににわたしを犯罪者あつかいしたからだ。これ以上無用な揉め事はやめてほしい。今夜は全然眠れない。ウツをこれ以上ひどくしないでほしい。私はあなたに興味はまったくない。ただ縁を切ってほしいだけだ。  女性の住まいに黙って上がり込んで、「うろつく趣味もない」と言い、さらに「犯罪者扱い」と逆切れするとは。 TURUGI29982007/08/1304:34 たぶんなにをかいても消されるだろうから好きなだけ書いておく。私は友達の家なら平気で上がりこみます。べつに非常識だと思ったことはないです。それを目くじらたてて、怒る三輪さんが不思議だった。なんか他人と親しくなりたくないみたいですね。いつも自分中心で他人の都合なんか考えていない。悪口だったらいくらでもかけそう。あせっている三輪さんをダイガク病院(仮名)につれていったのはだれでしょう。バイトも休んで協力してあげたけれど、それでもこのしうちですか。2回つきあった覚えがありますがそれもお忘れですか、都合よく忘れてしまうみたいですね。引越しも手伝ったし、いろいろボランティアをしているのに、感謝されずに犯罪者扱いはすごいですね。やっぱりあなたはキチガイだよ。はっきりいってまともじゃないです。もうすこし自覚して生きてほしいです。  ツルギ氏が「いろいろボランティアをしている」から、私は感謝の気持ちとして、ツルギ氏に何をされても受け入れなくてはならないということらしい。 TURUGI29982007/08/1304:40 メールを書くなとポリスにいわれたけれどどんな罪になるのか教えてほしい。  警察官に聞けばよいことである。なぜ私に聞くのだ。しかもブログのコメント欄で。 TURUGI29982007/08/1306:19 もうどうでもいいや、好きにしたら、被害妄想がすごいので何をいっても無駄に思える。あんたの顔なんてみたくもないし、ボランティアをやった分金をもらいたいぐらいだ。何様と思っているか知らないけれど恩知らずもはなはだしいな。全部他人の手をかりず一人でやればいいんだよ。この先だれが介護についてもうまくいかないと思う。根本的に考え方が間違っていると思う。あなたにとって世界は敵だらけだ。この先も敵だらけなんだと思う。大体本人の承諾なしに推測で悪口を書くその根性が許せないな。私が絶交を考えたのもあなたの感情がうわっすべりで誠意が感じられないからだ。大体、部屋を片付けたいのなら簡単な図面ぐらい書いておくものだ。勝手にすすめていけば怒るし手に負えない。はっきりいってあなたとはコミュニケーシオン成り立ちません。悪口はいくらでも書けるけどつける薬はありません。私はあなたに興味はまったくありませんけれど心配なら警察呼ぶなりなんとでもしてください。 50年以上生きてきたけれどあなたのようなバカは初めてです。  ここではっきりした。ツルギ氏は、「ボランティア」を自称しつつ、「カネがほしい」「誠意がほしい(何が誠意であるかは、自分が判断する)」というのである。そして、そういう「ボランティア」を受け入れない障害者は、「全部他人の手をかりず一人でやればいい」のである。さらに、自分のような「ボランティア」を受け入れない障害者は、「この先だれが介護についてもうまくいかない」という罰、さらに「世界は敵だらけ」という呪いを受けなくてはならないのである。 ★ヘルパーは来たけれど  数週間後、片付けの終わった住まいの中に、「リレーションシップ」の責任者、マサカさんと、ヘルパー二名がやってきた。四〇歳前後と思われたマサカさん、それからヘルパーの一人である三〇歳前後の女性からは、「ヘルパー業務に非常に習熟している職業人」という感じを受けた。もう一人のヘルパーは、四五歳前後と思われる女性だった。長年、専業主婦であったという感じを受けた。着ている服は、みすぼらしかった。単にみすぼらしいだけではなく、不潔感が漂っていた。立ち居振る舞いや家事の仕草はぎこちなかった。長年、専業主婦であったように見えるけれども、家事に習熟しているふうには見えなかった。表情は暗く険悪だった。  片付けが終わった後、マサカさんは  「Nヘルパーを派遣します」 と宣言した。その、いちばん仕事のできなさそうな、暗く険悪な感じの女性だった。  福祉事務所の担当ケースワーカーK氏が「特別に認めてあげた」という計らいにより、私は、ヘルパー派遣を受けられるようになった。その「計らい」とは、  「一か月あたり一四時間、本来なら一日あたり三〇分のヘルパー派遣時間を、一週間に一日、一回あたり三時間にまとめて使用することを特別に認める」 というものであった。私は、そのNヘルパーと一緒に過ごす時間を最短にしたかった。一回あたり三時間を週に一回だけガマンするのは、一回あたり一時間を週に三回ガマンするよりもマシだと思った。また、茨城県と東京の二重生活をしていたので、東京の住まいにヘルパーが来る日は週に一回にしておかなければ、毎日の生活を回せない……と思っていた。そんなことはないのだが、私は、障害者としての生活にも、ヘルパーが来る生活にもまったく慣れていなかったのである。    Nヘルパーは遅刻が多かった。一〇分、一五分の遅刻は毎度のことであった。終了時間を一〇分、一五分繰り下げるので、少なく働いて時間の分だけの給料を得ていたわけではないのだが、私は釈然としなかった。  来訪時刻の九時になっても、Nヘルパーは来ない。「ああまた遅刻か」と思いながら待っていると、一〇分か一五分ほどして、ドアを叩く音がする。私がドアを開けて「おはようございます」と挨拶すると、Nヘルパーは「おわようごあいまう」というような不明瞭な挨拶をする。そして「ぬうっ」という感じで家の中に入り込み、ほとんど言葉を交わすことなく家事を始める。  私は、Nヘルパーが最初のヘルパーだったので、「ヘルパーとは、そんなものなのだろうか?」と思いながら接していた。とにかく私が気をつけてほしいことは、猫たちの脱走防止であった。しかし、Nヘルパーが「猫に注意しながらドアを開け閉めする」の可能な人物だとは思えなかった。猫たちは、Nヘルパーの来訪中の三時間をずっと、狭いケージの中で過ごすこととなった。  洗濯物がタオル一枚しかない日、Nヘルパーは私に  「これだけですか?」 と声をかけることもなく、タオル一枚のために、洗濯機に四〇リットルの水を入れて洗濯した。四〇リットルは洗濯機の最大の水量だ。その洗濯機には、より少ない水量で洗うためのメニューがある。そもそも自動的に洗濯物の量を判定する機能があるので、放っておけば自動的に、ごく少ない水でタオル一枚を洗うのである。しかしNヘルパーは、洗濯物の量が少なくても、大量の水で洗濯をした。そして、回っている洗濯物を、不思議な笑みを浮かべながら見守っていた。おそらく意図的に水の無駄遣いをしていたのだと思う。  当時の私は、ファミレス用のダスターを箱単位で購入して使用していた。布巾としても雑巾としても使い勝手がよいからである。そのダスターは、恐ろしい勢いで減った。一か月に多くても一〇枚も消耗しないものであるはずなのに、一か月で一〇〇枚ほどが減っていった。箱単位で購入していた使い捨て手袋も、恐ろしい勢いで減っていった。  風呂場の脱衣場には、私が長年かけて少しずつ買い集めていたアロマオイルが何本もあった。Nヘルパーが来るたびに、一本、また一本……と減っていった。他にも、私が気づかないうちに消えたものがいろいろとあったかもしれない。  コンセントに刺さっているプラグは、Nヘルパーが帰ったあと、いつも何本かが半分抜けかかっていた。主婦歴の長い人が「危険」と知らないわけはない。もしかすると、Nヘルパーが意図的にやっていたのかもしれない。  「リレーションシップ」からヘルパー派遣を受ける条件として洗濯機を設置したのはよいのだが、住まいの洗濯機用の排水口は溢れやすかった。バケツに排水を溜め、その排水を浴室で流すようにしてもらっていた。Nヘルパーは「水道工事屋さんに頼んでください」と言う。工事には費用がかかるし、工事の立ち会いも必要だ。それで対応できずにいたところ、Nヘルパーは翌々週「ここに頼んでください」と紙を持ってきて、私の目の前に叩きつけるように置いた。水道工事屋の名称と電話番号が書かれていた。  私はその日のうちに近所の電気量販店に行き、延長ホースを買ってきた。そして、洗濯機の排水が、溢れたことの一度もない浴室の排水口に流れるよう簡単な工事をした。その翌週、やってきて私の説明を受けたNヘルパーは、全身を震わせて怒りを表明した。洗濯機からの排水の問題は解決したはずなのに……?  私はこの、見るからに陰気な感じのするNヘルパーと一緒にいたくなかった。なるべく離れて過ごすようにしていた。だから、あるいは、私の目が届かないのをいいことに……ということであったかもしれない。  それでも、週に一回でも、入浴して身体を洗うことができ、髪をきちんと洗ってもらうことができるのは、ないよりマシだった。私はNヘルパーのいる苦痛な時間をガマンし、退出後は家の中を点検した。今日は何が減っているのか。何が危険な状態にされているのか。それから、二匹の猫たちをケージから解放した。  そんなことが毎週、半年ほど続いた後の二〇〇八年三月、決定的なことが起こった。  前日、夜明けまで仕事をしていた私は、朝、起き上がることができずにいた。Nヘルパーの来訪前に猫たちをケージに入れ、Nヘルパーの来訪中は、入浴時以外はベッドで横になっていた。  すると、Nヘルパーが、私のすぐ横に来て、腰に手を当て、私を睨みつけ、こう言い放ったのだ。  「あなた、本当は歩けるのに、障害者のふりをしてラクをしたいんでしょう?」  私は家の中を、さまざまな条件下で若干歩くことができる。床面の状態や、どこにどういう手がかりがあるかを知り尽くしているからできることだ。それは、障害者であるかどうかと、どのような関係があるのだろうか? 私はNヘルパーが何を言いたいのかわからず、黙っていた。すると彼女は  「私は、片足がちょっと短いんですよ。小児麻痺でね」  他人に何か障害があるとして、その重い軽いは他人がどうこう言えるものではない。少なくともNヘルパーは、自転車に乗って、隣の区から通ってきて、歩きまわることが自在にできるように見えるのではあるが。彼女は続けて言う。  「障害者手帳は取ってないんですよ。取らずに頑張らなくちゃと思って」  必要なら取ればいい。「片足が短い」というのであれば、医師が障害者手帳の取得に協力しないわけはない。取れても四級くらい、大したメリットはないだろうけれども。  Nヘルパーは最後に  「まあ、身体を動かして働ける分だけ、あなたよりは恵まれてるんだと思う」 と言い放ち、私の住まいを去った。  私はすぐに、「リレーションシップ」に電話を入れた。その日のNヘルパーの暴言を告げ、「別のヘルパーを派遣してください」と申し入れた。責任者のマサカさんは、その時は不在だった。  数十分後、マサカさんから電話があった。マサカさんは  「Nさんはちょっと不器用で、不用意なことを言ってしまうところがあるけれど、悪い人じゃないんです」 と言う。だったらなぜ、そんなことが起こるのか。私にあんな暴言を吐いた人が「悪い人じゃない」ということがあるものか。マサカさんは  「うちのヘルパーにそんな人いません、そんなことするわけありません」 と繰り返すだけだった。実際にそんな人がいたのに、実際に私はそんなことをされたのに。  翌週、いつもの曜日のいつもの時間、ヘルパーは誰も来なかった。私は「リレーションシップ」に電話した。半分寝ぼけたような声で、職員が  「いま、ヘルパーを探してるところなんですう」 と答えた。その翌週も、ヘルパーは来なかった。マサカさんからは、何の連絡もないままだった。  その翌週も。  たまりかねた私は、福祉事務所の担当ケースワーカーK氏に連絡した。直後、マサカさんから電話があり、  「これから新しいヘルパーを派遣するということでよろしいでしょうか」 という。それまでの居丈高な調子はまったくなく、平身低頭という感じの声だった。私は、  「もう、そちらにはお願いしたくありません」 と言った。また、ヘルパーの来ない生活に戻るとしても。Nヘルパーのような人が来ると思っただけで、私は生き続ける気力が萎えそうだった。それよりは、ヘルパーが来ないほうが、よっぽどマシかもしれない。  間もなく、福祉事務所のK氏の紹介で、新しい介護事業所「ののはな(仮名)」と契約することができた。二〇〇八年四月には、私はまたヘルパー派遣を受けられるようになっていた。しかし「ののはな」も、二〇〇九年夏には契約を打ち切ることとなった。直接の原因は、入浴中、ヘルパーに顔面を引っかかれたことと、責任者が「あなたが、ヘルパーに顔を洗わせるほど甘えているからいけない」と逆切れしたことだった。ちなみに、私は顔を洗うことをヘルパーに依頼したことはない。  ヘルパーに辛い思いをさせられ、介護事業所に情けない思いをさせられるたびに、私は「お金さえあれば!」と考えた。自費で介護事業所からヘルパー派遣を受ける場合、費用の相場は一時間あたり二五〇〇円〜三〇〇〇円程度である。でも、福祉に関心のある学生を自分で直接雇用するのであれば、そこまでの費用は必要ないだろう。時給一五〇〇円を用意すれば、ずっと快適に生活することができるだろう。そのためには原資が必要だ。稼がなければ……。  「稼がなくては」と焦った私は、ITブラック企業の暗黒面に落ちることになる。 ●第7回 労務屋の子が、ブラック企業にハマるまで   目  次 親に「生きてくれるな」と意思表示された私 仕事仲間がいるときに返済を催促する電話が ICT分野の「研究」を支えていた国際マルチ  二〇〇八年三月の私は、「自分がこんなに惨めだったことはない」と思っていた。  二〇〇五年秋に発生しはじめた運動障害により、日常生活が困難に直面し、職業機会も失った。自分の最後の希望を託して、二〇〇七年春、国立北関東マンモス大学の大学院博士課程に進学を決めた。二〇〇七年初夏には、身体障害者手帳も取得した。そして、介護給付(ヘルパー派遣)を申請したところ、水際作戦に遭った上、決定された時間数は一か月あたり一四時間。周辺の障害者運動家たちは「生存にも足りない」と呆れた。そして、やってきたヘルパーは、物品をくすね、私に暴言を浴びせるような人物であった。介護事業所に苦情を述べると、何の相談も連絡もなく、ヘルパー派遣が中止された。  拝金主義者ではなかったはずの私は、いつの間にか「カネさえあれば」と考えるようになっていた。公的制度としての介護給付を利用するのでなく、自分でヘルパー志望者を面接し、雇用し、介護事業所以上の報酬を支払うことができれば、私は、こんな劣悪なヘルパーをあてがわれなくてもすむはずだ。こんな不誠実な介護事業所に「いいようにされる」ことに甘んじなくてすむはずだ。  そんな憤懣を抱えていた二〇〇八年三月、国立北関東マンモス大学から連絡があった。今月中に後期の学費を支払わなければ、除籍になるという。当時の私は、ほぼ学生支援機構の奨学金以外に収入のアテを持っていなかったのである。それは収入ではなく、借金なのであるが。  地方に住んでいる私の両親は、高齢とはいえ、経済的にはかなり余裕のある状況にあった。しかし、当時の私は、「親に頼る」という選択肢を選べなかった。 ★親に「生きてくれるな」と  意思表示された私  現在、後期高齢者である私の父親は、九州の地元では有力な企業の一つに長く勤務していた。大学卒業から定年までのほぼ全期間にわたり、労務のスペシャリストとして会社を支えていた父親は、退職後も労務に関連する豊富な職務経験と知識・人脈を高く評価され、現在も、さまざまな業務で職業活動を続けている。健康や体力には若干の衰えが見られるものの、未だに自動車も運転しており、「三階建て」の老齢年金と就労収入で、母親ともども定年後の人生を謳歌している。  私は幼少時から、手持ちの本を読んでしまうと、父親の書棚の書棚にある本を勝手に読んでいた。その中には、労働法規解説や労働訴訟の判例解説などもあった。「門前の小僧、習わぬ経を読む」ではないが、小学校高学年の私は、労働三法が何であり、どう機能するものであるか、あらかた理解していた。  両親と私の関係は、私が物心ついたころから、けっして良好ではなかった。母親は私を虐待しており、きょうだいに対して、私を「サンドバッグ」として暴力の対象にすることを奨励していた。父親はそれを黙認していた。理由は、今から思い返してみてもよくわからない。  「これが理由だろうか?」と思い浮かぶことは、いくつかある。私は母親の胎内で双生児だったのだが、一人は不幸な事故で出生前に死んでしまった。母親によれば、それは、他人を殺してでも自分は生まれてくるほど性悪な私の性格のせいであった。幼少時の私は文字や数に関する発達が早く、二歳で仮名文字の読み書きができるようになっていた。もと小学校教員だった父方の祖母は、私の成長を非常に喜んだ。しかし、母親はこの祖母と非常に険悪な関係にあった。私が文字や言葉で目立った発達を遂げるたびに、母親は「好かん! おばあちゃんそっくり!」と荒れた。しかし、どの一つも、虐待が始まり、続いたことの説明になるほど大きな問題ではない。虐待の理由は、今となってもよくわからない。  私は、大学進学を機に東京に飛び出し、東京で就職した。とにかく、原家族から距離を置きたかったからである。しかしその後も、原家族、特に母親には困らされつづけ、ことあるごとに自分の人生を切り開くことを妨げられつづけた。関係は年々疎遠になっていったが、二〇〇〇年を過ぎた頃には、冠婚葬祭に私も列席する程度には、形式的な最低限の付き合いは続いていた。  しかし、私が運動障害を抱えると、状況は一変した。まず、父親は私を無理に実家に連れ戻そうとした。私が応じないでいると、父親は「障害は自己責任」「もう、こっちは関係ない」などと言いはじめた。そして私は、冠婚葬祭に招かれなくなった。  二〇〇七年九月ごろは、まだ、「一〇月に法事があるので予定しておくように」と父親から電話で言われる。しかし、一〇月下旬になっても、法事がいつ・どこで行われるのかは知らされない。こちらから電話すると、「終わった、いい会だった」と父親が言うという感じだった。  その後は、知らされることさえなくなった。ごく近い親類の葬式くらいは、さすがに日時と場所は知らされるのだが、行こうとすると「行くと、ヨシコが喪主に食事をねだって迷惑をかける」などという意味不明の、そして根拠不明の言葉を電話の向こうから浴びせられる。それは私が自主的に「わかりました、行くのはやめます」と言うまで続く。そして、私は「葬式の予定を知らせたけど、自分から来ないと言った」ということにされるのである。この状況は二〇一四年現在も、エスカレートしつつ続いている。  二〇〇七年一二月、私はたまたま用事があって実家の近くに行った。そして、両親の住む実家に顔を出した。自分がそこまで嫌われ、疎まれているということを、当時の私は認めたくなかったのだと思う。いつか、愛され認められる可能性があるかもしれないと、まだ、どこかで期待していたのであろう。  父親は、私が身体障害者手帳を取得したことを知ると、当惑したような表情になった。なぜ? それでやっと、「障害があっても生きていく、活動する」ということのスタートラインに立てたのに?  その直前、私は障害をもつ大学院生の一人として、国立北関東マンモス大学のイベントに登壇した。たまたま持っていたそのパンフレットを両親に見せると、父親は困ったような顔をして「ほう、これにヨシコが出たのか」と言っていた。そして、私がまだ入学金も前期学費も支払っていないことを知ると、「払ってやる」と言いはじめた。私は、両親の好意に甘えることにした。半額が免除されているとはいえ、払うことは大変な負担だったからである。  しかし当時、本人以外の人物による銀行窓口での振込みは、煩雑になりつつあった。結局、送金を受け、私が支払うことになったのだが、そのとき、父親は私に電話口で、  「いつまで生きるつもりや?」 と言ったのである。私は、背筋が凍る思いがした。真意がはかりかねた。いや、真意ははっきりしている。はっきりしすぎている。「あまり長く生きないでほしい」というのである。でも、実の父親が自分に対して「早く死ね」と言っているとは、自分が認めたくなかった。私は  「さあね、平均寿命までは生きるんじゃないかと思うけど」 と答えた。  なぜ、そのとき、  「それは、早く死んでほしいということですか?」 と問い返せなかったのだろうか。今後、対話の機会もなく父親が他界したら、そのことを、自分が死ぬまで後悔するだろう。  こんなことがあった後なので、両親に学費の無心をすることは考えられなかった。私は、銀行のローンカードで学費相当分の現金をかきあつめ、ギリギリのタイミングで後期学費を支払った。学生支援機構からの「奨学金」という名の借金は、生活費や補装具費用の自費負担分の支払いに消えていた。  それ以外の収入は、平均して月に七万円程度。ほそぼそと続けていた著述業の「仕込み」に必要な経費を差し引くと、手元に残るのは、一か月に三万円程度だった。研究には、書籍も機材も必要だ。とても、それだけで学費をまかなうことはできなかった。大学の指導教員は「必要なものがあったら、申し出てくれれば研究予算で買う」と言ってはいたが、実際に買う段階になると難色を示した。結局、私は二〇一一年の退学まで、何一つ、研究予算で書籍や物品を購入してもらうことはなかった。 ★仕事仲間がいるときに  返済を催促する電話が  そして二〇〇八年五月、ゴールデンウィークが明けた。私は、学費を支払った銀行ローンの引き落とし日に、充分な残高を用意しておくことができなかった。次の奨学金の振込後に、すぐ支払う心づもりにしていた。  当然のことではあるが、銀行から固定電話に催促の電話がかかってきた。金曜日の午後であった。常時、留守番電話モードに設定してあった電話機に向かって、催促の電話をかけてきた男性は、一方的に督促の口上を述べた。五〇歳以上と思われる、何か怯えたような、切羽詰まったような話し方をする男性であった。もしかすると、銀行で人員削減対象とされている中高年が、そのような業務に回されていたのかもしれない。回収の成績にクビがかかっていたのかもしれない。そういう感じの話し方と声調だった。  私は「ああ来たな」という感じで、そのメッセージを聞いていた。ないものはない。でも近日中に返せる。今回の延滞によって、自分の信用情報に悪影響が及ぶ可能性はあるけれども、次の奨学金で返すしかないではないか。そして、それは実現できる見込みがきわめて高いことである。しかも、その数週間後には、特集記事の原稿料、約三〇万円ほどが振り込まれる予定であった。私は、まったく悲観していなかった。しかし、それではすまなかった。すぐ近くに、仕事仲間だったトヨナカ氏(仮名・当時三四歳)がいたからだ。  トヨナカ氏は、顔をひきつらせた。そして、  「今の電話って、借金の催促ですか!?」 と、まるで白昼の殺人事件を目撃したかのような声をあげたのだった。    その日、トヨナカ氏と私は、ちょっとした電子工作を行っていた。古い知人のトヨナカ氏、チバ氏(仮名)、後に加わったオギクボ氏(仮名)と私のグループは、二〇〇七年五月、電気仕掛けによって何かが起こったことを知る「センシング」と、電気仕掛けによって起こった何かに対処する「制御」の基礎を、予備知識を持たない人々に向けて平易に解説するWeb連載をスタートさせており、好評を博しつづけていた。連載は毎回、アクセスランキングの上位にあった。その媒体の広報パンフレットにも掲載され、書籍化の話が舞い込むほど、私たちの連載は評価されていた。その連載のための電子工作を、トヨナカ氏と私は、しばしば、私の住まいで一緒に行っていた。そこに、銀行からの電話がかかってきたのであった。  その後、トヨナカ氏は表情を固くしたままだった。話しかけても、返事は上の空だった。試作に一段落つけて夕食のために一緒に外に出ると、トヨナカ氏の私を見る目が軽蔑に変わっている。私は、気づかないふりをした。しかし、奨学金で「返す」とはいえ、返せるあてのある銀行ローンの一回の延滞は、私を軽蔑にしか値しない人間に変貌させてしまうほどのことなのか?  夕食を終え、トヨナカ氏と別れて自宅に帰った私は、古い友人の企業経営者・マサミに電話した。  「銀行ローンの返済が遅れたもんで、催促の電話がかかってきてさ」 とボヤく私に、マサミは  「ま、今日は金曜日だからさ、来週の月曜日まで忘れてなよ。土日は銀行から電話かかってこないから」 と明るく答えた。もちろん、そうなのだ。私もそう思っていた。私たちは、いろいろな話で楽しく盛り上がった。マサミは直截に、でも不快な感じは与えず、私の経済状況を気遣ってくれた。私も率直に答えた。少なくとも目先のやりくりで、深刻に心配する必要はない。それが、マサミと私の共通認識だった。深刻に心配する必要があるとすれば、「奨学金」という名の借金のことではあるが、それは、今心配しても致し方ないことである。マサミと私は、楽しく笑い転げた後、  「じゃ、近々、ご飯でも食べようね」 と約束して電話を切った。トヨナカ氏の反応は、結局、マサミには話さないままだった。  そして数日後、私は延滞していた銀行ローンを返した。問題は何もないはずだった。  しかしその後、トヨナカ氏は私に対して、露骨に侮蔑の態度を示すようになった。私が何か言葉を口にすると、横を向いて「ふん」と言ったり、小さく舌打ちしたり。私が何か、反論のしようのなさそうな正論を口にすると、トヨナカ氏はニヤニヤ笑いを浮かべるのであった。私はそれらのサインに気づかないふりをして、淡々と、共に行わなくてはならない作業を進めた。気づかず、ましてや傷ついてもいないのは、あくまでも「ふり」だ。私は気づいていたし、深く傷ついていた。でも、連載を最終回まで進めることが最大の課題だ。「こんなことに傷ついているヒマはない!」と自分に言い聞かせていた。  それでも、トヨナカ氏が帰っていったあと、私は黙って悔し涙を流すのだった。心配して私の顔を見上げ「みゃ?」と声をかけるお姉ちゃん猫(当時一一歳)の頭を撫で、無邪気に膝に飛び乗って甘える弟猫(当時一〇歳)を抱きしめながら。お金さえ充分にあれば、こんな情けない思いはしなくていいのに!  私は、仕事を増やすことにした。障害を抱えての日常生活は、未だ軌道に乗っているとはいえない。そんな状態だから、大学院での研究も、ほとんど手が付けられていないに等しい。それなのに、仕事を増やすなんて。  ……バカげている。まったくバカな判断だった。でも、当時の私の頭の中は、「お金さえあれば!」という考えで一杯だったのだ。お金さえあれば介護が買える。生活が問題なく営めて、学費が支払える。そして、研究ができて次のステップに進める。だから、今はすべてを犠牲にしてお金を稼ごう。それで、すべてがきっと解決する。  追い詰められた人間は、なんと愚かな判断をしてしまうものだろうか。特に賢明な人間というわけではない私も、例外ではなかった。 ★ICT分野の「研究」を支えていた  国際マルチ  長年、ICT(情報通信システム)業界で仕事をしてきた私には、豊富な人脈があった。私はまず、「最近、起業した」と言っていた若い友人のハルキ(仮名)に電話した。ハルキと私は、「ハルキちゃん」「みわちゃん」と呼び合うような関係だった。わが家の猫たちは、ときどき遊びに来るハルキに可愛がられ、なついていた。  電話で  「パートタイムのシステムエンジニアの仕事はない?」 と相談した私に、ハルキは  「ちょうどいい仕事があるよ」 と答えた。システムエンジニア(SE)の仕事は幅広いが、代表的な例を一言で説明すれば、ネットショッピングサイトの「中の人」である。ネットショッピングサイトのシステムの中では、数多くの取引きをコンピュータが扱っており、代金の支払いや在庫の管理など数多くの処理を行っている。一般には「コンピュータに任せれば人間は何も考えずにいられる」と考えられがちだが、正常に運用されているかどうかのチェック、トラブルにつながる問題はないかどうかの確認、トラブル発生時の対処……など、数多くの作業が人間によって行われている。  ハルキが提示した労働条件は、一日あたり平均二時間、報酬は一か月一五万円。当時のパートタイムSEの報酬としては、むしろ安いほうであったが、ゼイタクは言えなかった。  翌日、私はさっそく、ハルキの会社を訪ねた。ハルキが設立して未だ一年を経過していなかった「アソッブ(仮名)」というその会社の社屋は、小さな民家だった。当時二〇代前半のハルキが起業した動機の一つは、「自分自身の友人たちに仕事をつくりたい」ということであった。ハルキは、親との関係で問題を抱えているけれども経済力がなく単身生活に踏み切れない友人たちに、仕事と宿泊の場を提供していた。社屋には六畳程度の部屋が二つあり、ハルキの友人である社員たちは男女別に雑魚寝をしていた。楽しそうだった。  しかし、それは「ICT飯場」というべきものだった。雇われていたハルキの友人たちは、長くても半年程度で、勤務先であり居住の場である社屋を去っていった。飯場は、基本的に長居できる場所ではない。業種がICT業界でも同様だ。  「アソッブ」の案件のほとんどは、自社で受注したものではなく、「うそっぱち研究所(仮名)」が受注したものであった。「うそっぱち研究所」の社長であるニシシンバシ氏(仮名)は、ハルキを非常に高く評価し、「アソッブ」の設立と経営にさまざまな支援を行いつづけていた。しかし実際には、「うそっぱち研究所」の業務のうち、「汚れ仕事」に属する部分が「アソッブ」に押し付けられていたのであった。  もともと大手流通チェーンのシステム部門にいたニシシンバシ氏の独自開発環境とシステムは、物流・物販を伴う数多くの企業に採用されている。長年、ティッシュペーパーから家に至るシンプルかつスタイリッシュな日用品の数々を独自開発・販売している企業、自然派化粧品しか扱わないことで知られる有名ブランド化粧品企業、安価かつファッショナブルな衣服を提供することで知られるアパレル企業などが、ニシシンバシ氏と「うそっぱち研究所」の主要な顧客である。  ニシシンバシ氏は、小企業の集合体である「うそっぱちグループ」を率いている。「アソッブ」も、グループ企業の一社である。私が「アソッブ」の仕事をしていた当時、グループの全社員は約五〇名であったが、各グループ企業の一社の規模は二名〜七名程度である。「就業規則をつくる」など労働法規を順守することが義務とならない規模におさえているのである。  「うそっぱちグループ」のうち「うそっぱち研究所」と「美日用品システムズ(仮名)」の二社は、おもにスタイリッシュな日用品企業、自然派ブランド化粧品企業、ファッショナブル衣料品企業など、社名を言えば誰でも知っているブランド企業のシステムを担当していた。また、「研究所」の名のとおり、大学や有名ブランド企業と提携して「研究」といえるようなことも行っていた。しかし、その二社の収益は「うそっぱちグループ」の収益の一〇〜二〇%程度だった。研究からは直接には収益は上がってはいなかった。  「うそっぱちグループ」の収益の大半は、名目上は「アソッブ」を含む他のグループ企業から上がっていた。大きな収益をもたらす顧客は、カルト宗教団体であったり、効能のまったくないサプリメントを「商品」とする国際マルチ企業であったりした。「うそっぱちグループ」のマルチ向けシステムには、たしかに優れた面が多かった。優れていない面は人海戦術でカバーされており、全体としてはかなり脆弱だったのだが、負の部分を知らないマルチ企業からの引き合いが相当数あったようだ。  当時、日本のマルチ企業の会員管理・商品管理システムを提供しているICT企業は日本に七社あったが、社長のニシシンバシ氏によれば、うち五社の既存のシステムはすでに「うそっぱちグループ」に置き換えられた実績があり、「残る二社を陥落すれば、日本のマルチ企業はすべて掌握できる」ということであった。    二〇〇八年五月二〇日ごろ、ハルキの紹介でニシシンバシ氏の面接を受けた私は、その場で採用されることとなった。私を採用し、報酬を支払うのは「アソッブ」だった。仕事に従事する場に関しては、特に定めはなかった。システムエンジニアという職種の性格上、仕事に従事する場はどこでも良い場合もあるし、客先に出向かなければならない場合もあるし、オフィスで他のメンバーと顔を合わせながら行わなくてはならない場合もある。私は、  「ふつうにパートタイムSEの仕事ができて、得られるべき報酬が得られるのであれば、形態は、まあ、いいや」 と自分に言い聞かせ、  「それって偽装請負でしょ?」 という内心の声をなだめた。  報酬は  「五月は五万円、六月は一か月一〇万円、七月から一か月一五万円」 ということだった。身分はアルバイト。それには私は異存なかった。ニシシンバシ氏は  「近日中に、労働契約書をつくるから」  と言っていた。その労働契約書は、二〇〇九年三月に私が退職するまで、作成されることがなかった。もしかすると、労働契約書を受け取っている社員は一人もいないのかもしれない。  私は、自分のかかわるシステムが国際マルチのものであることに関して、特に抵抗感はなかった。一人のSEとして見た時、それは単に販売システムであり、在庫管理システムであり、特殊な形態の顧客管理システムである。そして、その国際マルチ企業は、どの国でも違法扱いされないために細心の注意を払っていた。人聞きが良いわけではないけれども、違法性があるわけではない。それに、私自身がマルチ商法を行っているわけではない。  問題は、自分自身が得ることのできる報酬であり、労働条件であり、お金があるのでトヨナカ氏に軽蔑されなくなる近未来の自分であり、円滑に営まれる自分自身の生活であり、それらの結果として近い将来に可能になるはずの研究であった。  私は、「うそっぱち研究所」と「うそっぱちグループ」のダブル・スタンダードぶりには、目をつぶることにした。それほど長居せずに去ることになるであろう企業のタテマエとホンネがどんなに乖離していようが、自分が被害を被らなければそれですむことである……と。  もちろん、そんな企業に近づいたら被害を被らないわけはない。その可能性を考えて慎重に判断するだけの冷静さは、当時の私からは失われていた。  ニシシンバシ氏は、一方で義理人情を重視する家族主義の一面も見せた。不思議なことでもなんでもなく、ブラック企業の経営者にはよくあることである。家族主義で従業員に身も心も捧げさせ、それを利用して企業としての業績をあげ、ブランディングに有利な部分を利用してブランドを確立する。こうして、巧妙に冷酷にICT業界を泳ぎ渡るニシシンバシ氏の野望は、現在、最後の仕上げに近いところにあるように見受けられる。  もちろんニシシンバシ氏は、私に対しても、家族主義的な温情めいたものを見せた。私が生活に必要なだけのヘルパー派遣を受けられずに困っていることを述べると、ニシシンバシ氏は  「知り合いに、介護の仕事をしていた女性がいて、今、失業しているから派遣する」 と即座に言った。私は、ありがたく受けることにした。それが好意というよりは、むしろ仕組まれた罠であるとも知らずに。 ●第8回 住まいの中にまで侵入するブラック企業との闘い 〜奪われた心身の自由とプライバシー   目  次  好意で差し向けられたはずの「介護の仕事をしていた人」は…  対応は二四時間いつでも、休日なし、ネットと電話での拘束  そして退職へ追い込まれる  二〇〇八年五月、私はIT企業「うそっぱち研究所(仮名)」の関連会社「アソッブ(仮名)」で、パートタイムSE(システムエンジニア)の職を得た。従事するのは、A区の「うそっぱち研究所」が受託したB区の案件。私を雇用していたのは、C区の「アソッブ」。典型的な偽装請負である。  私の雇用形態は当初、アルバイトということになっていたが、雇用契約書が私に手渡されることは最後までなかった。後に、渋る「アソッブ」と交渉して得た源泉徴収票によれば、報酬の支払い名目は「給与」となっていた。  私がライターである一方で大学院生でもあり学資を必要としていること、居住している東京都アケボノスギ区(仮名)から充分な時間数のヘルパー派遣を受けられていないために、私費でヘルパー相当の人々を確保する必要があり、そのためにも資金が必要であることは、最初から明らかにしていた。また、パートタイムSEの仕事に充てることの可能な時間は一日あたり二〜三時間程度であった。その条件を「うそっぱち研究所」の社長であるニシシンバシ氏(仮名)も、「アソッブ」の社長である旧知の若い友人ハルキ(仮名)も了承したうえで、私はその職を得たはずだった。  しかし結果として、私は著述業も大学院での研究もできない状況に追い込まれた。 ★好意で差し向けられたはずの  「介護の仕事をしていた人」は…  ニシシンバシ氏は、私が充分にヘルパー派遣を受けることができない状況に対して、  「それじゃ仕事にも支障があるだろうから、以前、介護の仕事をしていた自分の知り合いを派遣するよ」 と申し出てくれた。  二〇〇八年六月のある日、ニシシンバシ氏は四〇代前半の女性・エリカさん(仮名)を伴って、私の住まいを訪れた。ニシシンバシ氏の前では、エリカさんは特におかしな言動はしなかった。そして、エリカさんは週に何回か私の住まいを訪れ、介護をすることとなった。ニシシンバシ氏によれば、エリカさんはかつて、バリバリのやり手経営者であった。しかし、ストレスから精神を病み、生活保護を受給して療養を続けているそうだ。このところ、就労が可能な状態まで回復してきたので、再起のためのリハビリとして私のところで介護をするということであった。エリカさんは絵を中心としたアーティストとしての再起を目指しているのだそうだ。  よくわからない話ではあるが、切実に介護を必要としていた私は、この申し出を有り難く受けることにした。  ニシシンバシ氏は、エリカさんのことを「エリー」と呼んでいた。エリカさんは「ニシシンバシさん」と呼んでいた。どこか甘ったれた口調であった。二人の関係には私は関心はなかったが、異性の友人や知り合いであるという感じは受けなかった。  ニシシンバシ氏は、私に対して「引きこもっているからいけない、もっと人と接したほうがいい」と言った。不思議な話である。私には、いわゆる「社会的引きこもり」であった時期はほとんどない。毎日のように外出し、毎週、茨城県にある国立北関東マンモス大学に行き、週の半分は学生寮で生活し、さまざまな人々と接して会話し、共同浴場では娘のような年齢の女子学生と浴槽の中でコミュニケーションを楽しんでいた。しかし、ニシシンバシ氏とその周辺では、ニシシンバシ氏が「引きこもり」といえば、私は「引きこもり」ということになるのであった。たとえ、根拠がまったくなくとも。  二〇〇八年七月初旬から、エリカさんは私の住まいを訪れるようになった。介護が受けられることは受けられ、週に二回以上の入浴が可能にはなった。しかし、私と二匹の猫たちは、まことにストレスフルな時間を過ごすことになった。  エリカさんは、約束した時間どおりに来ることがなかった。いつも三〇分や一時間、あるいはそれ以上は遅れてきた。「今、ウツで起きられなくて」「昨日、眠れなくて」「みわさんのために作業していたから」など、理由はさまざまであった。そして、「そのかわりに」と、さまざまなものを差し出した。自分の好きな甘いインスタント飲料の数杯分であったり、自分の着古した衣類であったり、おにぎりと玉子焼きであったりした。  エリカさんは、飲料を「一緒に飲みたい」という。しかし私は、甘い飲料が嫌いなのだ。衣類は、私がまったく好まない「ヒラヒラフリフリ」というタイプのものであるが、エリカさんは私に「少しは、おしゃれしたら?」という。私は、それらの自称「好意」をていねいに断るのに苦慮した。  おにぎりと玉子焼きは「みわさん、朝食を食べていないんじゃないかと思って」ということであった。私はその日、すでに朝食を食べていたが、エリカさんは「私の好意は、受け入れられなくてはならないんだからね」という表情を顔に浮かべている。エリカさんが見守る、というより恐ろしい表情で注視する前で、「日常的に家の手伝いをしている中高生なら、ここまでひどくはないだろう」というレベルのおにぎりと卵焼きを食べた。エリカさんは満足そうな笑みを浮かべた。私は少しも嬉しくなかった。惨めな気分だった。  エリカさんは、私の住まいで二匹の猫たちがのびのびとくつろいでいる姿を見ると、表情を険悪にして、  「猫、パラダイスだねえ」 と言った。吐き捨てる、というような口調であった。私は全身を緊張させた。私が介護を必要としているので、エリカさんはここにいる。同時に私は、エリカさんから猫たちを守らなくてはならない。なんとしても。  エリカさんによれば、私は大幅な住まいの模様替えをしなくてはならないのであった。そうすれば気分が変わって、引きこもりではなくなるのだそうであった。そしてエリカさんは、目の前で私に通販サイトにアクセスさせ、「これがいい」と、いくつかの買物をさせようとした。エリカさんの趣味であるフェミニンな家具やソファやカバー類であった。なぜ、私の住まいの中をエリカさんの趣味のとおりにしなくてはならないのだ? なぜ?  私は  「気が進まない」 とエリカさんに言い、その買物を中断した。エリカさんは険悪な表情を浮かべた。  このようなことは何回も繰り返された。エリカさんが希望する買物のほとんどはなんとか断ったのだが、それでも一部は受け入れてしまった。住まいの中でエリカさんが逆上しそうだったからである。その総額は五万円ほどにも達した。  私が強いられようとしたのは、買い物だけではなかった。評判の霊能者や占い師に見てもらいに行くことであったり、「ゴッド・ハンド」と名高い整体師のもとに行くことであったりした。エリカさんがなぜ私を誘うのか、まったく不可解だった。行きたければ一人で行けばいいのである。もしかするとエリカさんは、私をダシにしてニシシンバシ氏からそれらの費用をせしめようとしていたのかもしれない。応じることはできなかった。なによりも、私には時間がなかったからだ。  思い通りにならないことに憤ったエリカさんは、ときどき、  「ニシシンバシさんに言われて私が来てて、私の意見はニシシンバシさんの意見でもあるのに、なんで私のいうことが聞けないの!」 と、黄色い声で叫んだ。私は  「ここは私の住まいですから、私のお金や時間の使い方は私が決めることですから」 と答えつづけた。  エリカさんは、私が「大学院に行っている」と言うと  「学生してるんだ、遊んでるんだ、いいなあ」 と言った。博士課程の院生は、遊んでいるわけではなく、半ばは職業として研究をしている。私はそう話した。きわめてまっとうに話したと思う。するとエリカさんは  「何の研究をしているの?」 という。研究内容である半導体ナノテクのシミュレーションについて話すと、エリカさんは  「それって何の役に立つの?」 と冷笑した。  しかし、半導体技術は結構、世の中の役に立ってきた。私が行おうとしていた、行いたかった研究は、まさにこれから役に立つであろう研究であった。そもそも、エリカさんの携帯電話の中には、私が企業研究者として長年関わってきた、そして当時も院生として関わろうとしていた半導体技術が大いに使われていたのだ。エリカさんが関心を持っているのは、着メロ・携帯メールに使える絵文字・携帯電話そのものをキラキラ光るビーズで飾り立てることであったけれども、半導体技術がなければ、その携帯電話が携帯電話として機能することはない。  しかし、いかに私がそのことを話しても、エリカさんの冷ややかな態度は変わることがなかった。熱意を込めて真剣に話す私を、エリカさんは終始、冷笑しつづけた。  それにしても、私にとって最もストレスフルだったのは、エリカさんの仕事ができないことでも押し付けがましいことでもなく、私を話し相手にしたがることだった。エリカさんは話したくなったら、一方的に話したいことを話しはじめるのであった。私はエリカさんを刺激しないように相槌を打って聞くだけであった。ヘタに何か言うと、エリカさんが「そんなことも知らないの?」と嘲笑するからである。私は、二〇分や三〇分にもわたってエリカさんの話を聞き、適切な間合いを見て介護の仕事の続きに話を戻した。エリカさんは大変不満そうであった。  エリカさんの話からは、さまざまなことが判明した。まず、エリカさんは、職業として介護に従事していたことが、過去に一度もなかったのである。裕福な男性と結婚したら、すぐに相手の父親が寝たきりになり、その介護を数年間行っていたというだけであった。相手の父親が亡くなり介護が終了すると、エリカさんは離婚されて追い出されてしまったのだそうだった。  絵描きであるはずのエリカさんからは、絵を描くこと・日常描いている絵に関する話はまったく出てこなかった。私は通信制の美術短大でデザインを勉強したことがあり、イラストを換金していた時期もある。絵を描かない絵描き、絵の訓練を毎日行わない絵描きなど、ありえない。  でも、エリカさんは自分なりに、絵を描くため、アーティストであるための努力はしているということであった。それは「アーティストらしい」と自分が思える服装をすることであり、気分をふんわりさせるための香水を嗅いだり身につけたりすることであった。香水は毎月、異なるものを何本も購入しているのだそうだった。「そうしないと気分がふんわりしないから」ということであった。  そして、二〇〇八年七月下旬、私は、目の前でダラダラとおしゃべりを続け、  「ねえ、どうしてもっとからんでくれないの? ぶつかってよ、ケンカしようよ、それで友達になろうよ」 と言うエリカさんに  「私はぶつかりたくありません」 と冷静に言った。エリカさんは表情をこわばらせ、  「用事があるから」 といって、やりかけの洗濯も掃除もそのままに、私の住まいを立ち去った。  そして、エリカさんは二度と、私の前に現れなかった。ニシシンバシ氏は、  「みわさんは引きこもりだから、エリカとうまく接することができなかった」 ということにしたようであった。その後の私は、ニシシンバシ氏自身からも周辺の人々からも、「引きこもり」と言われつづけた。それも、私に面と向かって「あなたは引きこもり」というのではなく、私の至近距離で、私にだけ聞こえるように「引きこもり」とささやくのであった。  エリカさんとの接触で、「こんな人に生活保護なんて! こんな人に血税を使うなんて!」という感情が芽生えなかったといえば、嘘になる。問題のある生活保護当事者に自分自身が被害を被るという経験は、「それでも、制度や構造を曇りない目で見つめることができるか?」という自問のきっかけとなった。それは困難な課題ではある。しかし乗り越えることはできるのではないだろうか? 私自身は「乗り越えられた」と思っている。 ★対応要求は二四時間いつでも、  休日なし、ネットと電話での拘束  では肝心の、実態は「うそっぱち研究所」で名目上は「アソッブ」の、よくある偽装請負の形態でのパートタイムSEの業務はどうであったか。  業務内容は、特に難しいものではなかった。しかし、不定期にトラブル対応の要請が飛び込んできた。パートタイムとはいえ、SEの業務とはこのようなものではある。私は、大学院修士課程を修了した後に一〇年間勤務していた企業でも、研究者としての業務のかたわら、社内にいるユーザーたちを対象としたSE業務を行っていた。「不定期に何かが起こる」ということ自体は、想定の範囲内にあることであった。問題は、その頻度と拘束される時間である。  私が関わっていたのは、あくまでも合法的な範囲で利益を追求している国際マルチのシステムだった。といっても、内容的には通常の通販サイトである。マルチのシステムであるからこその特徴は、会員管理のみである。会員の間に「親―子」の関係があり、子から親へとコミッション(紹介報酬)の受け渡しが行われることを除けば、通販サイトと変わりはない。もちろん、マルチである以上は、コミッションに関わる処理こそが最も重要なのである。支払われるコミッションの総額は、毎月、東京都知事選に出馬した有力候補の選挙費用一回分以上には達していた。  「うそっぱち研究所」に支払われていた管理・運用費用は、一か月あたり数百万円であった。そのシステムが要求していたのは、一か月あたり延べ二〜三人程度の労働力。もしも、三人のIT技術者が通常の賃金相場でフルタイム雇用されていたとすれば、「うそっぱち研究所」が得ていた報酬のうち約二〇%が人件費に充てられたことになる。しかし、実際に人件費に充てられていたのは、一〇%以下であっただろう。「一日あたり二〜三時間」という約束で従事しはじめた私には、一か月あたり一五万円が支払われていた。当初、この国際マルチの業務に従事していたのは、「アソッブ」の社長であったハルキ、「アソッブ」の二〇代の女性社員、私の三名であった。  「うそっぱち研究所」と「アソッブ」が開発して運用していたのは、億単位の金額を取り扱っているにしては、あまりにも脆弱でトラブルの多いシステムだった。脆弱さやトラブルの原因は、さまざまなところにあった。複数の人間が同じファイルを取り扱う場合のルールの取り決めさえ存在しないルーズな管理体制。OS(基本ソフト)が取り扱い可能な限界を超えても処理を行いつづけるしかない仕組み。  最大の問題は、数多くのファイルに分断されていた会員情報である。分断されていてもツジツマを合わせる仕組みがあればよいのだが、「うそっぱち研究所」のシステムにはそのような仕組みはなく、ツジツマ合わせは人海戦術で行うより他になかった。根本的な改良を行おうとは、誰も言い出せなかった。システムをつくったのが「うそっぱち研究所」のワンマン社長であるニシシンバシ氏であったからだ。  九月、このシステムを担当していた「アソッブ」の女性社員が退職した。その後は「アソッブ」の社長であるハルキと私だけで、このシステムを担当するしかなくなった。ハルキは経営・他のシステムの管理などで多忙なので、業務の多くは私に回ってきた。拘束時間は「一日あたり二〜三時間」などというものではなくなった。私は、抱えていた著述業の仕事や、もともと支障だらけで進捗らしい進捗をさせることができていなかった研究に、さらに大きな支障を抱えることになった。  私は、営業のオオバヤシ氏(仮名)に  「時間を決めてください、一日あたり二時間か三時間ということで引き受けた仕事です。定休日も週に一回は設けてください」 と申し出た。オオバヤシ氏は「では、午前九時から一二時までということで、休日は火曜日ということで」と了承したふりをした。  翌日から、午前九時から一二時まで、私の携帯電話には、オオバヤシ氏からの電話が何回もかかってきた。一一時五五分ごろにオオバヤシ氏が「まだ、一二時前だからいいですよね?」と電話をかけてきて、あれこれと案件を命じて「じゃ、やっといてください」というのであった。その三時間の間に命じられた仕事の量は、いかに有能なSEであっても一日ではこなせないものであることが珍しくなかった。そして翌日の午前九時になると、オオバヤシ氏は電話をかけてきて「終わってますか?」と言うのであった。終わっていないと答えると、オオバヤシ氏は「やっといてくださいと言ったじゃないですか!」と怒鳴るのであった。そのうちに、私は、心身ともに疲弊していった。簡単なはずの仕事が、どうしてもこなせない状況に追い込まれていた。するとさらに、オオバヤシ氏に罵声を浴びせられることになった。  休日に関する取り決めも、あって無きがごときものであった。月曜日に「今日は休みじゃないから」という理由で大量の案件を命じ、水曜日に「終わっていない」とオオバヤシ氏が切れたり、「お客さんに怒られる」と泣きだしたりするのであった。このオオバヤシ氏は、客先での打ち合わせの途中で「次の用事があるから」とそそくさと抜け出したり、客先のクレームを受けている最中に勝手に電話を切って対応をやめたりするなど、何かと問題の多い人物であった。ニシシンバシ氏にとっては、使いやすい人物だったということなのかもしれない。  二〇〇八年一二月、私の口座に振り込まれた給与金額は一二万円であった。「アソッブ」社長のハルキは、モンゴルに出張中で連絡がつかない。私はしかたなく、オオバヤシ氏に連絡し、「三万円足りません」と言った。オオバヤシ氏は「すぐに振り込ませます」と言い、「全部でいくらなんですか?」と聞いてきた。私はそこで、犯してはならないミスを犯してしまった。「一五万円です」と正直に答えてしまったのである。オオバヤシ氏は、電話の向こうで息を飲んだ。  何の技術も持たず、職業能力といえるものを何も持たない五〇代のオオバヤシ氏は、おそらく、「ワーキング・プア」に毛が生えた程度の給与しか得ていない。それなのに、パートタイムでありながら、しかも女性でありながら、私の一か月あたりの給与は一五万円。この事実は、オオバヤシ氏の嫉妬心を大いにかきたててしまったようである。  その後の私は、オオバヤシ氏だけではなくニシシンバシ氏やその側近たちから、執拗な攻撃を受けることになった。 ★そして退職へ追い込まれる  二〇〇九年一月から三月までの間に「うそっぱち研究所」と「アソッブ」で私の上に起こったことは、一言でいえば、企業が人を追い出す場合に用いる常套手段の集大成のようなものであった。  一月初旬のある朝、オオバヤシ氏から電話がかかってきて、  「今日、打ち合わせなのに、なんで来てないんですか?」 と一方的に怒鳴られた。打ち合わせの連絡はまったく受けていない。  「連絡は受けていません」 と答えると、  「連絡しました、電話で。留守電を聞いていないんですか?」 などとオオバヤシ氏は言う。着信記録もなければ留守電もなかったのだが、  「わかりました、これから向かいます」 と、「うそっぱち研究所」に向かう。すると、ニシシンバシ氏とハルキが黙々と作業をしているだけで、誰も打ち合わせなどしていなかった。しかたなく私も作業を開始した。社員の一人が私に好意的に話しかけると、ニシシンバシ氏がすぐに別件でその社員を手ひどく叱責した。そして、私はニシシンバシ氏に小声で「引きこもり」「引きこもり」と言われた。そんな数時間を過ごし、私は退出した。その日は、北関東マンモス大学に向かう日であったからだ。挨拶して退出する私のほうを誰も見ず、挨拶を返さなかった。  その次に起こったことは、ヌレギヌであった。ある朝、オオバヤシ氏からかかってきた電話によれば、その前の晩の九時頃、客先の重要なファイルの重要な内容が書き換えられており、数百万円の損害が発生しそうなのであった。しかし、ニシシンバシ氏もハルキも書き換えてはいないという。  「だから、みわさんしかいないんです」 ということだった。しかしその時刻、私はスパに行って、ひさびさの入浴を楽しんでいた。書き換えのしようがない。  私はシステムに入り、いくつかのファイルを閲覧し、誰がいつシステムに入ったかを確認した。その前夜九時頃には、誰もシステムに入っていなかったのである。  そのことを証拠とともにオオバヤシ氏に示すと、  「書き換えられた時刻が違います、今朝二時頃でした」 ということであった。しかしその時刻にも、システムには誰も入っていなかった。それを言うと、オオバヤシ氏は「そうでしたか」というだけであった。そして、「ファイルの書き換え」と「数百万円の損害」については、その後、何も言われなかった。つまり、でっち上げだったのであろう。  このようなことが、毎日のように起こった。私は退職に追い込まれようとしていたのであるから、もはや、適切なタイミングで退職するしか道はない。それはわかっていたものの、私はSNS「ミクシィ」で憤懣をぶちまけつづけていた。鬱屈を抱えつづけていたそんなある日、地方在住の父親から、  「特に用はないんだけど、どうしているかと思って」 と電話がかかってきた。そして父親は  「住む世界が変われば、付き合う相手も変わるのだから、あまり深追いするな」 というようなことを言った。父親は、「うそっぱち研究所」と私の一件を知っていたようである。なぜ?   この後も、つい最近まで父親は私のプライバシーにかなり詳しかった気配があった。父親はなぜか、私の消費行動や、私の預金残高について知っているようであった。地方の有力企業で労務屋として務め上げ、要職にもあった父親は、その人脈を活かして私のプライバシーを探っていたのかもしれない。いや、もしかすると、過去形で書くには未だ時期尚早で、現在進行形で私のプライバシーは父親に筒抜けなのかもしれない。  私は二〇〇九年三月、退職の意思を告げた。オオバヤシ氏は「わかりました」と答えた。ニシシンバシ氏とハルキからは何の返事もなかった。四月一日以後も、しばらくは、国際マルチの案件に関するメールが私にも届いていた。しかし二〇〇九年四月以後、要件に対応しなくても文句は言われず、給料も振り込まれなくなった。それで「ああ、本当に退職できたんだ」と思えた。  それで私は自由になれたわけではない。「うそっぱち研究所」やニシシンバシ氏人脈からと思われるネットストーキングまがいのことは、その後数か月にわたって続いた。しかし、私には、もうそれらのことがらに対して抵抗する体力も気力もが残っていなかった。  二〇〇八年から二〇〇九年にかけての私は、自分の住まいにおいて、仕事仲間からのパワハラ、訪問医療関係者からのパワハラや性的暴行にまでさらされていた。これらの出来事については、次回以後、改めて述べたい。  二〇〇九年春の私は、ただただ心身ともに疲弊していた。伸びきったゴムのように、ぐったりしていた。 ●第9回 とにかく「ほっ」としたい 〜生活の場を踏み荒らされて   目  次 福祉事務所の紹介で始まった訪問医療 誘導尋問か、自白の強要か 鍼灸師にわいせつ行為をされる 「高コスト」医療の終わり  二〇〇八年から二〇〇九年にかけての私は、公的福祉から得ることのできない介護を自力で確保し、生活環境を整備すべく、「とにかく稼がなくては」と焦った。そして、ブラックIT企業に搾取されてボロボロになった。私は必要な支援を得て、仕事や大学院博士課程での研究で成果を出したかったのだが、「成果を出す」どころか「仕事や研究に取り組む」からも後退することになってしまった。  当時の私を責め苛んでいたのは、ブラックIT企業だけではなかった。 ★福祉事務所の紹介で始まった訪問医療  二〇〇七年七月から八月にかけて、私は喘息発作を何回も起こし、五回ほど救急搬送された。搬送される先は、毎回まちまちだった。  あるときは、住まい近くの救急病院に搬送された。過去に受診したことがない病院だった。二〇代と思われる男性の当直医に  「生活保護受けてるの?」 と横柄な口調で言われ、身体障害の原因について聞かれた。私は喘鳴で苦しい呼吸をしながら、障害者ではあるが生活保護は利用していないことと、障害の内容と経過について話すしかなかった。医師が納得したのか納得しなかったのかはわからないが、そんな数分の後、私はやっと、生理食塩水の点滴や酸素吸入を受けることができた。  苦しい呼吸をしながらぐったりしている私の関節のあちこちを、当直医はハンマーで叩いた。そして、首をかしげていた。自分の思うような反応ではなかったのであろう。しかし、私は早急に喘息の治療が必要だから、救急車でここに来ているのだ。喘息の応急処置に腱反射が無関係であることは、医学の素人である私にだってわかる。情けなかった。ちなみに、「障害者、だから生活保護なんでしょ? 公費だからってムダな治療や検査を欲しがるんでしょ? なのに、それは最新型っぽいスマホ?」といった反応を医療機関で受けることは多い。あまりにも頻繁に起こるので、最近は腹立たしいとも情けないとも感じなくなった。「ああ、またか」だ。  次に発作を起こしたときに搬送されたのは、過去に受診したことのある総合病院だった。私はまたもや、生理食塩水の点滴と酸素吸入を受けていた。命にかかわるレベルではない喘息発作の治療としてできることは、水分補助と呼吸のアシストの二つくらいしかないのである。看護師たちは処置室のパソコンで私のカルテを開き、  「脳腫瘍の疑いだって」 と笑い合っていた。私はそこで初めて、自分に脳腫瘍の疑いがあったことを知った。  それにしても、かかりつけ病院があれば、こんな情けない思いはしないだろう。しかし、喘息発作を起こすと、そのかかりつけ病院まで自力で行くことはできないのである。  居住するアケボノスギ区の福祉事務所で、担当ケースワーカーK氏に相談すると、「だったら、訪問医療を」と、すぐに訪問医療機関を紹介してくれた。これで、発作のたびに毎回違う病院で情けない思いをすることはなくなるだろう。私はそう期待した。  とにもかくにも二〇〇七年九月、訪問医療を専門とする「さつきクリニック(仮名)」の医師と作業療法士が、私の住まいを訪れることとなった。医師は二週間に一回の訪問、作業療法士は一週間に一回の訪問であった。この他に、ヘルパーが週に一回訪問。二週間に一回程度、精神科に通院。  週の半分を茨城県にある国立北関東マンモス大学の学生寮で過ごしていた私は、自分の住まいにいられる週に四日程度の時間の多くを、医療と介護に割かざるを得ない状況となった。しかも、医師と作業療法士とヘルパーは、私の住まいを訪れるのである。その時間帯には、当然ではあるが、私は在宅していなくてはならない。その間、外出しなくては片付かない用事は、まったく片付かないということになる。  私は何となく、自分が障害を抱える以前の医療機関をイメージしていた。どこか調子が悪いとき、医療機関に出向く。待合室でしばし待ち、診察を受け、必要なら検査を受ける。やがて結果を説明され、処置や投薬を受けて帰る。尋常に受診し、尋常に帰宅する。そういうイメージである。訪問医療は、そのような尋常な医療を私にもたらしてくれるに違いない。根拠はないけれども、そう期待していた。そして、その期待は、すぐに裏切られることになった。  「さつきクリニック」から最初に派遣されたのは、三〇代前半と思われる男性の精神科医・アサダ医師(仮名)だった。精神科には別途通院しているのだが、院長である神経内科医のシズカ医師(仮名)が  「精神科の持病のある人だから、精神科の素養のある人じゃないと」 ということで、アサダ医師を派遣したのである。通院している精神科との連携が取られることもなく、私は二か所の医療機関の二人の精神科医に、同時に診察を受けることになった。「馴染みがなく、私の身体の状況をまったく知らない医療機関で、毎回、詮索されたり多くの説明をしなくてはならない状況に陥るのはイヤだ」という思いで頭がいっぱいだった当時の私は、精神科治療が重複しただけで、身体に関する治療が充分に受けられるようになったわけではないという当時の状況のおかしさには気づかなかった。 ★誘導尋問か、自白の強要か  二週間に一回訪問するアサダ医師は、精神科医らしく、日常生活の様子を聞き取った。そして、身体の動きに関する質問をした。簡単な運動能力チェックを行うこともあった。  アサダ医師にはしばしば、  「この二週間でできなくなったことは?」 という訊き方をされた。私は、何か新規にできなくなったことがあれば、それを答えた。  二〇〇七年後半から二〇〇八年にかけての時期は、特に、指の運動能力の著しい低下に悩んでいた。とはいえ、当時、イラストつきの新聞連載を月に一回行っていた私は、正直なところ悩む暇もなかった。「描くことを諦める」という選択をしないのであれば、毎回、「現在の手の能力でできること」と「今回描きたいイラスト」の間で、「描きたい、なおかつ描けるイラスト」という落とし所を探り、実際に描くしかない。  他にも、乗り越えなくてはならない課題がたくさんだった。週に三時間しか受けられない介護給付(ヘルパー派遣)も利用して、支障のないレベルで家事をこなすこと。猫たちの世話をすること。研究に必要な大量の資料を、自分が扱える形態にすること。なにより、茨城県と東京都の二か所に生活の拠点があるという状況で、仕事、研究、自分の日常生活に必要な時間のやりくりをし、体力を維持すること……。  いずれにしても、数多くの新しい判断が必要だった。「やらない」という選択をする可能性はあるか? やるか? やらないか? 「やる」のであれば、現在の条件に適応した方法を、現実的に見出すことはできるか? 費用はいくら必要か? その費用は、捻出可能か? 「他人に任せる」という選択肢はないか? 私には、運動能力が低下していくということに関して落ち込んでいるヒマなどなかったのであるが、  「あ、そういえば、こういう変化が」 といったことは、実際にあったとおりに答えていた。  アサダ医師は  「この二週間で新しくできるようになったことは?」 といった訊き方もした。「ドロッ」「ドスッ」という感じの口調だった。しかし、自分の身体といつも付き合っている私からしてみれば、答えは「あるわけないじゃないの!」の一言に尽きた。私は  「特にないですね」 と答えるしかなかった。アサダ医師は、私の返事を聞いて、険悪な表情を浮かべた。  「ああ、また疑われているんだ」 と気づいてはいた。この不愉快な診察、役に立っていると思わない診察を、受けずに済むようになりたかった。でも、そのためにどうしたら良いのか。思い浮かばなかった。なにしろ、「さつきクリニック」を紹介したのは、福祉事務所の担当ケースワーカーK氏なのである。断ったら、ただでさえ険悪なアケボノスギ区と私の関係は、いったいどうなってしまうのだろうか?  ある時、アサダ医師は、  「みわさんは、自分の今の身体の状態について、何が原因だと思っているんですか?」 と尋ねた。それは私の方が聞きたいことである。なぜそんなことを患者本人に尋ねるのか。アサダ医師の側には、そう尋ねるだけの理由があるのだろう。心因性の何かということにして説明をつけてしまえば、身体障害の原因が不明であることについては一応の説明がつく。あるいは、詐病ということでも。そうなれば、アケボノスギ区は、私が身体障害者でなくなるので、介護給付などの身体障害者向け福祉制度を利用させずに済む。もしも詐病であれば、一方的に私が悪者なので、アケボノスギ区の水際作戦などの問題は問題でなくなる。しかしながら私の方には、身体が動かなくなってきた原因について、心当たりはまったくなかった。  「実は、引き金になったショッキングな出来事があって、それは……というもので」 などと答えれば、アサダ医師は満足するのだろうか。でも本当に何もない。私は  「原因にはもう興味ないです」 と答えた。それは本音であった。  その四年ほど前、四〇歳になったばかりの私は、始めたばかりのバレエに夢中だった。バレエの動きがとにかく心地よくて、歩いていても電車の中でも、ちょっとした待ち時間も、とにかく身体を動かす機会があれば、何かしらバレエの動きをしていた。週に一回は、スポーツクラブで開催されるバレエのレッスンに参加して二時間ほど踊り、気持よく汗をかいたあと、「運動としては物足りないから」と五〇〇〇メートルを走り、「身体が暖まり過ぎたから」とプールに飛び込んで一〇〇〇メートルほど泳いでからビールを一杯。でも四二歳だった二〇〇五年の秋から、運動障害によって、そんな楽しい習慣を持ち続けることは不可能になった。だけど、悲しんでいるヒマはなかった。次から次へと自分の身体に訪れる新しい事態に対応し、生活を組み立て、やっと自治体の障害者福祉にたどり着いた。  当時、二〇〇七年の秋は、少しは落ち着いて自分の人生を組み立て直そうとしているところだ。運動障害は、少なくとも脳腫瘍や進行性の神経疾患ではないことが判明している。原因がわかっていなくても、これから先、急激に運動その他の能力を失いそうな見通しは、とりあえずは、ない。それはつまり、将来計画を立てて実行することが可能であるということだ。私はもう、それで充分だと思っていた。    でもアサダ医師は、怒りのような当惑のような険しい表情を浮かべた。私は恐ろしくなったが、  「柳澤桂子さんという方をご存知ですか?」 と話しはじめた。「知らない」というアサダ医師に、私は簡単に柳澤さんのことを話した。夫君ともども生命科学者だった柳澤さんは、中年のある時、原因不明の腹痛に悩まされるようになった。原因が判明しないまま、腹痛だけでなく多様な全身症状に悩まされるようになり、寝たきりになった。症状に苦しむばかりの日々が続き、安楽死を望むようになっていたある日、両親と同様に生命科学者となっていた長男が一本の論文を見つけた。「周期性嘔吐症」という病気とその治療に関する論文であった。その治療を試してみたところ、柳澤さんは立って散歩ができるところまで回復したのであった。  柳澤さんもまた、原因不明の疾患を抱えて苦しみながら、「どうせヒステリーだろう」「いや仮病では」と無神経な医師たちに傷つけられた経験を持っている。その経験は、柳澤さん自身の数多くの著書に記されている。しかし、ともに生命科学者であった柳澤さんと夫君は、可能な限りの情報にあたり、自分の状況を理解しようと努力した。そして、そのプロセスの中で、  「現在の医学で、病名をつけることのできる病気は、病気全体の三分の一程度」 という知見を得たという。  柳澤さんの著書で知ったこの事実は、私を大いに勇気づけた。原因不明であり、病名がついていないということは、ヒステリーであることも詐病であることも意味しない。人生が終わるということも意味しないし、将来のいつか治る可能性も否定しない。そして柳澤さん自身、病名もつかない病気で長年苦しみながら、数多くの著書を生み出してきた。仕事だってできる。仕事を発展させていける。なんという希望だろうか?  アサダ医師は、そう語る私の目の前で、  「ま、病名がつく病気が三分の一というのは、そうかもしれませんね」 と答えながら、先ほどよりも、はるかに険悪な表情をしていた。おそらく私は、アサダ医師が聞きたい答えではない答えをしたのだ。答えを間違えたのだ。でも正しい答えとは何なのだろうか? ヒステリー説の裏付けとなるような強烈なエピソードか? それとも「実は詐病なんです」という告白なのか?  後に開示してもらった診療録によれば、  「ヤナギサワケイコという人の話をしていた。知識をひけらかしたいのか?」 というコメントが、アサダ医師によってなされていた。  アサダ医師は間もなく「さつきクリニック」を退職した。以後、私の住まいを訪れる医師は、院長のシズカ医師となった。  同時期、同じく「さつきクリニック」から派遣されていた作業療法士のサナイ氏からは、さらに不愉快な接触をされていた。サナイ氏は私にマッサージをしたり手足をストレッチしたりしながら、世間話めかして、あるいは耳に口を近寄せて、いろいろな詮索をするのであった。現在来ているヘルパーに対してどう思っているか? 閣僚の失言に対してどう思うか? 政治的な立場は? 支持している政党は? 研究の進捗は?   ……なんで、作業療法士にそんなことを答えなくてはならないんだ! 作業療法のために来てるんだろう! 内偵じゃないだろう! 私は怒鳴りたかった。でも怒鳴れば「問題患者」「そら、やっぱり、ストレスを貯めこんでいるから、それでヒステリーで運動障害が」といったストーリーに使われるのは間違いなさそうだ。私は適当にはぐらかしつづけていた。サナイ氏の探りは、さらに執拗になっていった。  ある日、私は、ブログでサナイ氏に対する怒りを爆発させた。どこの誰とも特定しなかった。「某医療関係者」としか書かなかった。しかし、サナイ氏は「自分のことが書いてある」とシズカ院長に言ったそうだ。それきり、サナイ氏は私の住まいにはやってこなくなった。 ★鍼灸師にわいせつ行為をされる  サナイ氏が来なくなり、私はマッサージやストレッチを受けることができなくなった。SNS「Mixi」でぼやいていると、ある鍼灸師が「自分が往診してもいい、ついては、訪問医療クリニックに同意書をもらってくれ」という。こうして、「テング堂(仮名)」という鍼灸院を解説している男性鍼灸師・アカサカ氏(仮名)が、「さつきクリニック」から派遣される形で、訪問鍼灸治療のために私の住まいを訪れることとなった。  しかしアカサカ氏は、いったい何をしに来ているのかわからない鍼灸師であった。鍼灸治療は一応はするのだが、どことなく施術はぞんざいだ。そして、くだらないおしゃべりが多いのである。鍼灸師になる以前は自衛隊員だったアカサカ氏の自衛隊時代の話であったり、昔の武勇伝であったり、自慢話であったり。あるいは、新宿駅西口に建ったばかりの医療系専門学校の建物に六〇〇億円かかっていることに対する憤懣であったり、「加圧トレーニング」にまつわる某有名大学医学部教授のエゲツナイ商売に対する嫉妬であったり。  私は、アカサカ氏の憤懣や嫉妬に同意するわけにはいかなかった。友人たちの中には、その医療系専門学校の教員もいたし、加圧トレーニングの普及に関わっている人もいたからである。「そうですか」「そう思われるんですか」と答える私に、アカサカ氏は激しい怒りの表情を向けた。  いちばん閉口したのは、初対面で妻の悪口を延々と聞かされたことである。携帯電話に入っている妻の写真を見せて、「太っている」「服の好みが悪い」「洗濯物の畳み方が自衛隊とくらべて劣っている」などというのである。その妻は高校教員で、ろくに稼げていないアカサカ氏と二人の暮らしを経済的に支えているということだ。なぜその状態で、妻の悪口を他の女性に言えるのだ? アカサカ氏が当時「Mixi」の日記で自ら語っていた内容によれば、テング堂鍼灸院の経営状態は非常に厳しく、廃業も視野に入れなくてはならない状態なのだそうであった。  私は初対面の時、アカサカ氏が何のために妻の悪口を言っているのかに気づいた。つまりアカサカ氏は、私と恋愛ごっこを楽しみたいのである。大学進学準備段階で理科系のコースを選択した私は、高校を卒業して以後、「周囲は男性ばっかり」という環境で過ごしてきている。アカサカ氏のような男は何人も身近で見てきた。追い払うのに大変な苦労をしたり、追い払ったあとは周囲を巻き込んでの嫌がらせをされたり。アカサカ氏も、さっさと追い払いたいのは、やまやまだった。しかし、そんなことをしたら、私は「さつきクリニック」のシズカ医師に何をされるだろうか……。  シズカ医師は、アサダ医師よりもさらに激しく、私を攻撃し、追及した。是が非でも、私がヒステリーあるいは詐病である証拠をつかまなくてはならない理由が、シズカ医師にはあったようだった。  「本当に運動能力が失われているのかどうか確かめる」 という名目で、私を立たせておき、目をつぶらせ、肩を思い切り突いたこともある。転倒すればヒステリーでも詐病でもないということになるのかもしれない。転倒せず身を守れたらヒステリーか詐病ということになる。まるで「魔女裁判」だ。私は、転倒はしなかった。肩を突かれたとき、意識せず上半身を捻ったからだ。若干、バランスが崩れそうにはなったのだが、そのまま立位に戻った。このことは診療録には記録されていない。  シズカ医師にどういう背景があったのかは知らないが、「証拠」をつかまなくては、という焦りが相当にあったようである。診療録には、  「玄関の五〇pの段差を登り降りしていた」 などという記録がある。しかしながら、私の住まいの玄関に、そんな段差はない。  私は、シズカ医師の反応が恐ろしいので、鍼灸師アカサカ氏の不愉快な治療を受け入れ続けていた。もちろんSNSなどでは、適当に調子を合わせ、刺激しないようにしていた。アカサカ氏はそのうちに増長し、「ラブホテルに行こう」などと言い出すようになった。アカサカ氏によれば、自分と性行為をすれば私の運動障害は治るのだそうであった。なんというご都合主義。もちろん、丁寧にお断りしつづけた。何回、ラブホテルへの誘いを断ったかわからない。するとアカサカ氏は、大声を出して暴力的な態度に出るのであった。  二匹の猫たちは、アカサカ氏には表面的に愛想よく接しつつも、警戒を示していた。アカサカ氏が暴力的な態度を示したり性行為を執拗に誘ったりしはじめると、一一歳になっていたお姉ちゃん猫が、一〇歳の弟猫を連れて離れた場所に行ったりした。ある日、私がうつ伏せになって背中に鍼を打たれているとき、アカサカ氏が打った鍼を、お姉ちゃん猫が端から一本一本、口にくわえて抜いていったことがあった。お姉ちゃん猫が鍼を抜いたことは、アカサカ氏の Mixi 日記に「かわいい」と記録された。お姉ちゃん猫は、「治療」名目で行われている「鍼を刺す」という行為とアカサカ氏に対し、危機感を抱いていたのであろう。そして、自分のできることで対処してくれたのであろう。感謝の言葉もない。  二〇〇八年九月、アカサカ氏は私の住まいを鍼灸治療のために訪れ、性行為に及ぼうとした。私はパンティを脱がされて身体中を舐め回されはしたが、なんとかアカサカ氏をキレさせたり暴れさせたりせず、性行為もさせずに帰宅してもらうことに成功した。それから、あたふたと予定されていた仕事の打ち合わせに行った。  数日間悩みに悩んだあと、私は警察に届け出た。その悩んでいる間にも、アカサカ氏の訪問鍼灸治療は一回あった。アカサカ氏は「警察には言わないで欲しい」「以前にも別の女性とこういうことがあったけれども、何事もなかった」などと言っていた。私はこのアカサカ氏の「都合の良さ」が腹に据えかねて、警察に届け出ることにした。  ところが警察は、アカサカ氏の  「もともと恋愛関係で、その日も、求められたので応じて性行為に及んだ」 という言い分を全面的に信用し、私の目の前でアカサカ氏に電話をかけて事情聴取の様子を伝えたり、  「奥さんにバレて大変なことになっているそうだから、許してやったら?」 となだめすかそうとする調子であった。結局、私は被害届を提出することさえできなかった。  翌年の二〇〇九年、示談でいくばくかの和解金を得ることはできた。それで私は満足しなくてはならなかった。なお、二〇一四年三月現在も、テング堂鍼灸院とアカサカ氏は、何事もなかったかのように、当時と同じように営業を続けている。 ★「高コスト」医療の終わり  では「さつきクリニック」とシズカ医師は、自分のクリニックから派遣したことになっている鍼灸師の不始末にどう対応したか。私は、心から医療に失望することになった。  シズカ医師は、「私の精神状態が不穏だから警察沙汰にまでした」ということにしたいようだった。はじめて、私が通院している精神科クリニックに手紙を書いたという。しかし私の方は、鍼灸師アカサカ氏とのストレスフルな接触とわいせつ行為によって精神状態をやや悪化させているということはあれども、精神状態が不穏だから怒りを持っているわけでも警察に届け出ようとしているわけでもなかった。それは、シズカ医師にはまったく受け入れがたい現実であるようであった。  シズカ医師は次に、私がウソをついているということにしようとした。そうすれば、アカサカ氏の言い分とも警察の方針ともツジツマが合う。そしてシズカ医師は、そもそも「さつきクリニック」と私が接触したきっかけである数度の喘息発作まで疑いはじめた。根拠は「自分が発作を見たことがないから」であった。私が「救急搬送された病院に問い合わせてもらってもいいですし、必要でしたら診療録のコピーもいただいてきます」と言うと、「その必要はない」ということであった。そのうちに、ウソつき説も立ち消えたようである。  ついでシズカ医師は、私が「子ども」だから、そのような行動を取るのだということにしたいと考えたようだ。シズカ医師は訪問の際、診察もそこそこに、私がいかに「子ども」であるかについて述べたて、説教し、一時間ほど経過すると「次があるから」と去っていった。「さつきクリニック」に電話すると、医療相談員や看護師が、子どもに話しかけるかのような甘ったるい気持ち悪い口調で「あのねえ、みわさあん、……なのよ」というような話しぶりをするようになった。私はあくまでも通常の大人の口調で「です」「ます」体で話した。電話を切ってから、黙って涙した。なぜこんな扱いを受けなくてはならないのだ!  シズカ医師は、しだいに高圧的になっていった。二〇〇八年一一月から二〇〇九年二月にかけてのシズカ医師の言動については、「とにかく高圧的かつ暴力的に怒鳴っていた」ということしか記憶にない。そして「次があるから」と立ち去るシズカ医師を、私は玄関まで見送り「ありがとうございました」と言って頭を下げる。シズカ医師は挨拶を返すこともなく、「ふん!」と立ち去るのであった。  私は、「さつきクリニック」を紹介したケースワーカーのK氏に、アカサカ氏やシズカ医師の言動について相談した。そして、「訪問医療をやめたい」と申し出た。しかし、K氏は  「いや、ボクの顔を立てて、もうちょっとガマンできませんか」 と繰り返すばかりだった。  そのうちに、私の精神状態はさらに悪化した。繰り返し繰り返し、シズカ医師に「本当は詐病なんでしょう」「本当はヒステリーなんでしょう、何かヒステリーのきっかけがあったんでしょう」などと怒鳴られているうちに、「詐病」または「ヒステリー」と言わなくてはならないかのような気がしてきたのだった。  友人たちは、私の様子が「おかしい」と心配してくれた。二回か三回、飲みに誘ってもらった。しかしそのたびに私は泥酔し、  「医者に詐病とかヒステリーとか言われているから、詐病やヒステリーにならないと生きていけない、許されない」 などと意味不明のことを絶叫したそうだ。さらに  「医者があんなに詐病っていうんだったら、本当は問題なく歩けるはずでしょう、障害はないんでしょう、医者がそんなに正しいんだったら!」 などと言いつつ、杖も何も持たずに健常者のように歩こうとして転倒したこともあるそうだ。私が記憶しているのは、  「友人と飲みに行って飲み過ぎて、その後の記憶はない。翌日、目が覚めたら衣服が泥水まみれであったり、転倒したと思われるときに衣服が何かに引っかかって破れていたり、身体のあちこちに打撲傷があったり……」 だけである。  二〇〇九年三月、私は意を決して「さつきクリニック」に電話し、  「シズカ先生が怒鳴ってばかりで恐ろしい思いをするだけなので、治療を終了してほしい」 と申し出た。申し出は、その場で了承された。診療録には  「本人の申し出により治療終結」 と記されていた。  国民健康保険組合から「さつきクリニック」に支払われていた診療報酬は、医師・作業療法士が来訪していた時期に、一か月一二万円程度。来訪するのが医師だけになった後は、一か月あたり九万円程度。通院していた精神科と重複して処方されていた薬剤は、一か月あたり一〜二万円程度。「眠れない」と訴えると、強力すぎるので精神科では慎重に使用されている「ベゲタミンA」が処方されたりもした。訪問鍼灸治療のアカサカ氏は、結局は治療費を請求しなかったようであるが、もしその分も請求されていたら、「さつきクリニック」関連で支払われていた診療報酬は一か月あたり何万円に達したのだろうか?  私自身は「心身障害者医療費助成制度」保険制度が適用されるため、医療費の自費負担はない。しかし、自費負担があろうがなかろうが、ムダな検査や不要な治療は、ムダで不要だから欲しくない。ましてや、シズカ医師の「さつきクリニック」の高コスト医療を受ける必要はないと思っていた。国民健康保険組合から支出される費用が高コストであるだけではなく、私自身が心身に激しいストレスを受けて消耗するという意味でも高コスト。  そして、この医療機関を紹介したのは、アケボノスギ区の福祉事務所にいたケースワーカーK氏なのであった。K氏は、いったいどういうつもりだったのであろうか? 「さつきクリニック」の医療は高コストではあるが、私を身体障害者でなくすることに早期に成功すれば、アケボノスギ区の障害者福祉コストが削減できる……という目論見でもあったのだろうか?  二〇〇八年三月末、K氏は異動のため、私の担当ケースワーカーではなくなった。以後、接触したことはない。私は少しだけ、K氏の後任に期待した。「前任者が不適切だった」ということになれば、私はもう少しだけ、まともなケースワークを受けられるのではないか? と。甘すぎる期待ではあるが、期待せずにはいられなかった。 ●第10回 研究室という泥沼 〜大学院なんか、行くからいけない?   目  次 円満だった最初のゴールデンウイークまで 「クラッシャー上司」の影が 「イジメっ子君」がやってきた  二〇〇七年四月、私は茨城県にある国立北関東マンモス大学の大学院博士後期課程に進学した。一九九〇年に大学院修士課程を修了してから一八年目、二〇〇〇年に企業での研究キャリアを不本意に断念してから八年目。私は、研究の世界に未練タラタラだった。しかし、当時四四歳の私が、それから研究者として研究の世界に復帰することは不可能に近いだろう。私は「博士号を取得して、科学や研究について伝えることを仕事にすることができれば」と考えていた。当時は大学や研究機関の一部で、そのような職種の求人が始まっていた時期だった。  研究には、まことに麻薬的な魅力がある。課題を発見すること、不明なことがらを解き明かしていくこと、過去に行われていなかった何かをつくり上げていくこと。そのどれもが、推理小説以上のドキドキ・ワクワクをもたらしてくれる。研究所で実際の実験を担当する研究補助員であった勤労学生時代から、通算一五年間も研究の世界にどっぷり浸かっていた私は、その麻薬的な魅力に中毒していたのかもしれない。 ★円満だった最初のゴールデンウイークまで  一九九〇年から二〇〇〇年まで、落ち目の電機メーカー・オチ電気(仮名)で半導体を対象とした計算機シミュレーションの研究に従事していた私は、半導体の表面で起こる現象に大きな関心を持っていた。「固体」というイメージの強い半導体だが、たとえ固体であっても、その表面では、さまざまな現象がダイナミックに起こりつづけている。固体表面とは、固体の世界・気体または液体の世界との「国境」のようなものなのだ。現実の国境と同様、国境のあちら側とこちら側でさまざまな相互作用が行われないわけはない。私は今でも、物理学のありとあらゆる分野の中で、固体表面の現象を取り扱う分野が最も好きだ。宇宙論や素粒子論が嫌いなわけではないが、血の騒ぎ方がまったく違う。  国立北関東マンモス大学・ハヤ教授(仮名)のグループは、この半導体表面に関して、実験を中心とした活発な研究を行っていた。受験する前、ハヤ教授の研究室を訪問してみたところ、  「ちょうど、計算機シミュレーションをやってくれる人が欲しかった」 ということだった。しかし、根っからの「実験屋」であるハヤ教授には計算機シミュレーションの指導はできない。というわけで、大学院入試を突破した私は、計算機シミュレーションを専門とするサド教授(仮名)の研究室に籍を置くこととなった。  社会人大学院生とはいえ、東京から片道三時間かけて通ってくる障害者の私は、大学の配慮によって学生寮を使用させてもらえることとなった。私にとっては茨城県と東京都での二重生活、二匹の猫たちにとっては「週の半分は猫だけで留守番」という生活が始まった。  サド研究室の一二名ほどのメンバーは、私以外は全員男性だった。しかし、専門学校の講師業を務めていた時期のあった私にとって、自分の息子であってもおかしくないほど年の離れた男子学生たちと接することは、特に難しくもなんともないことであった。というより、高校卒業以後、ずっと理科系のコースで職業生活を送っていた私にとって、「自分以外、全員男」という状況は、「ああまたか」と思うまでもないほど馴染み深いものであった。ちなみに、二〇〇七年、同じ専攻に入学した大学院生約五〇名(博士前期・博士後期を含む)のうち女子は四名だった。約八%という女子比率は、物理系としては、むしろ多い方である。  研究室のメンバーたちが催してくれた新人歓迎宴会の席で、私は二〇代前半の大学生・大学院生たちと、さまざまな話をして笑い転げた。そこには当然のことながら、サド教授もいた。サド教授は、私の前職を話題にした。オチ電気時代のこと、それ以前、勤労学生だった時代に勤務していた二つの研究所のこと。それは、どこにでもありそうな「あの人は今」という会話だった。そしてサド教授は  「オチ電気にいた、ヒガシさん(仮名)とフカダさん(仮名)はよく知ってますよ」 と言った。その二人を、私は「よく知っている」どころではなかった。部長であったヒガシ氏、課長であったフカダ氏からは、私は在職中の一〇年間、さまざまなハラスメントを受けつづけていたのであった。  ヒガシ氏はしばしば、私を居酒屋などに呼びだしては「女性は専業主婦になるべきである」「我慢強さが女性の美徳」などと説教した。また私が、学会誌や専門書を読んでいると、見咎めてコピー取りを言いつけたりした。  フカダ氏はいわゆる「クラッシャー」であった。堅実な仕事ぶりと能力を評価されていた同僚・部下を、フカダ氏は次々と潰したり追い出したりした。バブル崩壊以後、新人の採用数が激減していたにもかかわらず、ヒガシ氏とフカダ氏は政治力にモノを言わせて、毎年のように新人を配属させていた。そして、少しでも「使いづらい」と感じると、定着する前に追い出していた。そのあり方は、周囲の部署からも疑問視されていた。徐々に、ヒガシ氏とフカダ氏の政治力をもってしても、新人の獲得は難しくなっていった。するとフカダ氏は、人員不足をアピールするための長時間残業を部下に要求した。私は応じず、それまで通りに二〇時間程度の残業しかしていなかったが、他の部下たちは応じていた。といっても、仕事があって忙しいわけではないので、応じていた部下たちはヒマをもてあましていた。その部下たちの使っていたコンピュータの付近には、週刊誌・旅行のパンフレットなどが山をなしていた。  おそらく、「仕事はするし、あからさまに反抗はしないけど、おかしな要求には一切従わない」という方針を貫いていた私は、フカダ氏にとって最も煙たい存在だったのではないかと思われる。一九九三年以後の私は、フカダ氏によって、仕事に用いるために必要な機器や情報を与えられず、仕事もできないような状況に置かれはじめた。私は、フカダ氏に潰されて精神を病んで退職した先輩が使っていた机に、帳簿上は廃棄されたことになっているコンピュータを載せ、企業間の「お付き合い」で購入したものの誰も使っていなかったプログラムを動かして研究を続けた。  この研究は一九九六年後半ごろから形になりはじめ、一九九七年、学会の全国大会での口頭発表二回・研究会での発表一回を行うことができた。非常に好評で、反響も大きかった。しかしこれ以後、私はさらに窮地に追い込まれ、その研究を発展させることも論文化することもなく、生活圏や交友範囲まで巻き込んでの嫌がらせを受けるようになり、結局、二〇〇〇年にオチ電気を去ることになったのだった。電話や通信の傍受・生活音の盗聴を疑われることがらも、一九九七年から頻発するようになっていた。現在も、まだ続いているかもしれない。  私はサド教授に対し、ヒガシ氏とフカダ氏に受けたハラスメントの話は、まったくしなかった。以後、一度もしていないままである。自分自身、思い出したくもない話なのである。ましてや心機一転しようとして進学した大学院で、そんな話はしたくなかったのだ。私は、ヒガシ氏とフカダ氏の罪のないエピソードばかりを話題にした。たとえば、三〇歳前後から頭髪が薄くなりはじめていたフカダ氏は、しばしば居酒屋でワカメ酢を注文した。フカダ氏は、同席している人々と分かち合うこともなく、そのワカメ酢を一人で食べながら、頭を叩いて「生えてこい、生えてこい」と言っていたのである。といっても、話題にした私には、フカダ氏を中傷するつもりはまったくなかった。この程度に「ちょっと対人関係に問題があるかもしれないかな?」という研究者は、珍しい存在ではない。ただの笑い話のつもりであった。  サド教授が、私の語るフカダ氏とワカメ酢のエピソードをどのように受け止めていたのかは知りようがない。ただの笑い話と受け止めていたのか、あるいは回りくどい中傷と解釈していたのか。しかしその場での会話は、「フカダさんは、ここ数年でずいぶん老けましたねえ」というサド教授に、私が「まだフカダさんに前髪はありますか?」と尋ね、サド教授は「このあいだ会った時には、ありましたっけねえ?」と答える、という調子であった。 ★「クラッシャー上司」の影が  二〇〇七年五月、ハヤ教授・サド教授・ハヤ教授の研究室の他の教員・学生とともに、最初の研究打ち合わせを行った。その時には、特に問題らしい問題はなかった。私は、まず追い付くべき目標としていたコーネル大学の研究者の論文の内容を紹介した。その論文にあるプログラムを真似てつくってみたプログラムは、五月、すでに骨組みだけはできていた。九月ごろには、小規模ながら現象を再現できるところまででき上がっていた。  しかし二〇〇七年六月ごろから、サド教授の態度は変わってきた。進捗が遅い、というのである。それは私も自覚していた。しかし、この時期の私は、まだ東京の住まいで安定した生活を営める状況になかった。やっと身体障害者手帳を取得できたばかりで、まだヘルパー派遣も受けられていなかったのである。  二〇〇七年九月になると、サド教授は「退学しては」と言うようになった。また、この時期から、セミナーなど研究室内の行事が私に知らされる頻度は激減した。ついで、研究に使うプログラムの情報収集のために参加していた英語圏のメーリングリストからのメールが、研究室内で割り当てられていたメールアドレスに届かなくなった。メール環境の管理をしていたのは、サド教授に管理の仕事を割り当てられた大学院生だった。私は何も気づいていないふりをして、個人所有のメールアドレスでメーリングリストへの参加を続けていた。以後、研究室のメール環境など一応は研究室メンバーなら公平に使えることになっている計算機資源は信頼しないことにした。  私は「追い出されようとしているんだな」と推測はした。もし他の院生に「来週、セミナーはないの?」と直接尋ねたら、ビクっとしながらでも「◯曜日の△時、×教室です」と教えてくれたかもしれない。しかし、私は意地で聞かなかった。そんなことをしたら、自分が研究室内の情報流通から追い出されているという事実を認めることになってしまう。おそらくは、そのとおりだったのだろうが、認めたら自分が惨め過ぎると思ったのだ。  私の推測だが、サド教授は、ヒガシ氏やフカダ氏から私に関する情報を得たのではないだろうか。むろん、ヒガシ氏・フカダ氏が私に対して好意的な発言をするわけはない。半導体の計算機シミュレーションの世界では権威となっているヒガシ氏・フカダ氏と円満な関係になかった私を、サド教授が「自分の研究室に引き続き所属させておきたい」と考えたとは思えない。もし私が問題なく成果を上げるようであれば、サド教授は狭い「業界」で板挟み状況に置かれることになるからだ。このことを考えれば、私がさまざまな嫌がらせを受けたことは、むしろ自然ななりゆきであったと言える。  しかし私の方は、せっかく手にした機会を手放したくはなかった。ヒガシ氏・フカダ氏が私につけた「ケチ」を払拭したいという思いもあっての大学院進学だった。それを理解する指導教員を選ばなかったのは、まったく私の「自己責任」であった。「自己責任」と自分を責める思いがある一方で、一方的な言い分を信じて行動したサド教授に対し、私はいまだに怒りを禁じ得ない。  サド教授はまた、私が論文を「読めていない」と執拗に言いつづけた。  「論文を読むのは、小説なんかをパラパラパラパラ読むのとは違うんだよ」というのが、サド教授の主張であった。サド教授の中には、論文という選ばれた者のための文章の世界があり、小説のように誰にでも読める文章の世界があり、その二者の間には「身分違い」というべき違いがあるようであった。  当時も一般読者向けに記事を書いていた私は、その身分違いの世界からやってきた場違いな人間であったということだろうか? でも、小説を楽しむために読む立場と、売文を生業にしている立場では、同じ小説でも読み方はまったく異なるだろう。少なくとも私にとっては、小説もノンフィクションも「書き手はどう考えてこの一文を書いたのか、この構成としたのか、その目的は読者に対するどのような効果を意図してのことか」を考えつつ読むことが習慣となっている。「そんなことを考えずに楽しめればいいのに」とは思うけれども、書き手・作り手という職業を選んでしまった以上は無理というものだ。そして、それは論文を読むことと非常に共通点の多い営みだと思う。  しかし、目の前のサド教授、少なくとも研究の世界で自分の生殺与奪の権を握っている人物に、そんなことを言えようか。私は黙って、言われるままになっていた。この後二〇一〇年まで、私は誰にもサド教授に関する不満を漏らしていない。「ここでなら言っても安全」と確信できる場がなく、「この人になら言っても大丈夫」と思える相手がいなかったからである。大学のカウンセリングセンター? 利用はしていた。しかし、そこは私が最も「良い子ちゃん」として振る舞わざるを得ない場であった。こと教員との間で学生・院生がトラブルを抱えた場合、大学のカウンセリングセンターは基本的には教員の味方である。サド教授に何を言われても、私は石にしがみついてでも、研究の世界へと戻るための糸口を手放したくなかった。  二〇〇七年一〇月、私は「補装具費支給制度」により、電動車椅子の交付を受けた。六月に身体障害者手帳を取得、七月に東京都心身障害者福祉センターで判定を受け、八月に居住する東京都アケボノスギ区より交付の決定を知らされた。身長一五八p、日本人女性としても大柄なほうではない私は、身長に対して手足が長い。このため、既成品の車椅子は身体に合わない。しかし、交付が決定されたのは、既成品の電動車椅子であった。私は「ないよりマシ!」と割り切ることにした。少なくとも、一か月あたり三万円にも達するレンタル品の利用費用の負担からは解放されるのだから。 ★「イジメっ子君」がやってきた  サド教授の執拗な「退学を」という勧奨に応じず、二〇〇八年春、私は大学院生活の二年目を迎えた。そして、この春、修士一年生として入ってきた男子院生・ヨシハラ(仮名)に、私は深刻なイジメを受けることになった。  ヨシハラ(仮名)は私と同じ私立大学の出身だった。本来の学籍は東大にあったのだが、指導教員に院生を指導できない状況が発生したため、北関東マンモス大学のサド教授に預けられたのだった。ヨシハラと私が卒業した私立大学は、よくも悪くも学業成績を非常に重視する学風で、「学業成績さえ良ければ、他に難があっても問題にされない」というところがある。その私立大学から東大の大学院に合格したヨシハラは、確かに優秀ではあった。そして、「学業成績さえ良ければ」という勘違いの甚だしい人物でもあった。  まもなくヨシハラは、私を攻撃対象とするようになった。もしかすると、サド教授にそれとなく指示されてのことであったかもしれない。あるいは、サド教授が私を疎んでいることを察し、「安心してイジメていいんだ」と考えたのかもしれない。  私はそれまで、研究が進んでいないことや生活面で苦労多いことを、研究室の他の院生たちとの間で話題にすることができていた。障害だの生活面での問題だのはさておき、研究はそれだけで大変なことなのである。さらに、サド教授は誰に対しても強烈なプレッシャーをかけていた。サド教授の居室で指導を受けていた男子院生が、泣きながら居室を出てきたのを見たこともある。しかし、ヨシハラが私を攻撃対象としはじめてからは、研究室で誰かと話すことも難しくなった。  たとえば私が、学部四年生の誰かと和やかに話していたら、「それじゃまた」と離れたとたん、すかさずヨシハラが相手に近寄り「研究はどうなっているんだ?」などと詰問する。そして、東大と本来の指導教員の名前を出して、自分の政治力を誇示する。こんなことが二回か三回繰り返されたら、誰も私に話しかけなくなるのは当然のことであろう。  もしサド教授が、研究室内のイジメに対して毅然と臨むような教員であったら、成り行きは違ったかもしれない。しかしサド教授は、研究室内のイジメを「ないことにする」に対する熱意だけはあっても、「なくす」「発生させない」にはまったく関心がなかった。サド教授の主な関心対象は、研究成果であり、研究成果をアピールすることによって得られる研究予算であった。むろん、充分な研究予算がなければ研究室をアクティブに運営していくことはできない。順調に研究予算が取得できていることには、研究室の他の問題点の多くを覆い隠すほどの威力がある。現状で学生・院生にできる対処は、そのような教員や研究室に「近寄らない」「入り込まない」でしかない。トラブルに巻き込まれてダメージを受けてからできる対処は、皆無ではないけれども非常に少ない。  それでも、プロのライターである私の存在は、研究室の他のメンバーにとっては、それなりに利用価値のあるものであったと思われる。私は何回、他のメンバーに依頼されて文書をチェックしたかわからない。学会の予稿もあったし、日本学術振興会の特別研究員制度など若い研究者を助成する制度の応募文書もあった。テーマの違う他の学生・院生の文書については、書かれている研究内容の実際がどうであったのかを私は知らない。しかし、構成が適切か・訴えたいことを訴えられるストーリーとなっているか・読んだ人が「この発表を聞いてみたい」「この応募者に機会を与えてみたい」と判断するために充分な情報が盛り込まれているかどうかについては、「パッと見」で指摘することができた。  しかし、大学院生活の二年目が終わろうとする二〇〇九年三月のある夜を最後に、そのような機会もなくなった。  二〇〇九年三月のある深夜、私は研究室でコンピュータに向かって研究に関する作業をしていた。そこに、修士一年のナカタ(仮名)がやってきた。間もなく、応用物理学会の全国大会が開催される時期だった。  「発表の練習をするから付き合ってもらえませんか」 というナカタの発表練習に、私はいつものように付き合った。そこにはヨシハラもいた。私はいつものように、発表の各パートの時間を計測した。これは、たとえば背景と序論に時間をかけすぎて、結果と結論が早口になってしまう見苦しい発表にならないために必要なことだ。ついで、発表原稿を見せてもらって文言にコメント。サド研究室で、何回も繰り返してきた「いつもの」作業のはずであった。しかしこの夜は、私が何か言うたびにヨシハラが「そんなことはどうでもいい!」「くだらない!」などと口を挟んだ。私は、ヨシハラの攻撃にめげずに、言うべきことは言った。この時以後、私が個人的に発表練習への付き合いや文書のチェックを求められることはなくなった。私に依頼したら、ヨシハラとの関係が悪くなる。ヨシハラは、サド教授に非常に大切にされている。であれば、研究室メンバーの誰が、私と関わりたいと望むだろうか?  現在の私から見れば、まったく不可解な話である。ヨシハラの幼稚な攻撃に対して手も足も出なかったとは。たとえばヨシハラが「東大」を理由に何かを主張し始めたら、にっこり笑って、「でも所詮は、お互い私学出身だよねえ?」と釘を差すことだってできたはずだ。ヨシハラが後輩たちに「研究どうなってるの?」と嫌味を言いはじめたら、「ヨシハラ君が先日、あの学会に投稿した論文はどうなったの?」と矛先を本人に向けることだって可能だったはずだ。若さを度外視しても野心をギラギラさせすぎていたヨシハラは、実のところ隙だらけだった。「足をすくう」「脚を引っ張る」といったことはしたいとも思わなかったけれども、やろうと思えば可能ではあっただろう。ちょっと皮肉を浴びせたり、ちょっと牽制したりする程度の機会なら、いくらでもあったはずだ。  しかし、当時の私は、口から言葉を出すことが、だんだん困難になりつつあった。そもそも時間のやりくりだけでも大変だったのだ。二〇〇八年から二〇〇九年初頭にかけての私は、約束のうえではパートタイムSE(システムエンジニア)であったはずのブラック企業から生活のすべてを搾取されつづけており、しかも訪問医療からのハラスメント・ヘルパーからの虐待もあるという状況の中で、気力を振りしぼって、勉強したり研究に打ち込んだりしようとしていた。しかし私からは、全体的に体力気力が失われつつあった。二〇〇八年後半から二〇〇九年前半にかけての私は、勉強や研究に必要な集中力を維持するどころか、日常生活を、途切れ途切れの意識の中で、なんとか大きな事故なく営んでいるという状況であった。心身とも極度に疲弊した状態にあった。大きな原因の一つは、身体に合っていない既成品の車椅子にあったのだが、その可能性には気づいていなかった。  私は、せめて、大学院に入学した二〇〇七年春ごろの状態に戻りたかった。その頃の私は、経済面を中心に数多くの問題を抱えてはいたけれども、少なくとも、そこまで深刻な疲弊状態にはなかった。「疲れていない状態に戻りたい。そこまで疲れていなかった状態に戻りたい」。それが当時の私の、心からの望みであった。でも、何をすれば「疲れていない」に戻ることができるのだろうか? 見当もつかなかった。休めばいいのだろうか? 肉体的に休むこと・仕事をしないこと・研究をしないことは、休暇を設定すれば可能かもしれない。でも、安心して休むことはできそうにもなかった。  私に休むことを躊躇させた大きな理由の一つは、二〇〇八年一二月から受給しはじめていた障害基礎年金だった。「いや、年金があるんだから、安心して休めるんじゃないか?」と思われるだろうか? 当時の私にとっても、現在の私にとっても、「冗談じゃない!」である。障害年金を受給している障害者が仕事をせずにいたら「仕事をしたくないから、障害者のふりをして年金を詐取しているのだろう」と言いたてる人が必ず出現するだろう。年金を受給している障害者だからこそ、「働かない」は難しいという面がある。「いいご身分ねえ」と言われずに障害者が休息できる場は、病院の中か施設の中くらいにしかない。それでは、仕事を手放すわけにはいかないとしても、研究をせずにいることくらいはできただろうか? 否。大学院に進学した意味がなくなってしまう。大学院に進学するという選択をした自分を、自分で否定することになってしまう。そんなことになるんだったら、もういい。疲れたままでいい。というより、このままでいるしかないだろう……。  二〇〇九年五月、二匹の猫たちは揃って誕生日を迎えた。お姉ちゃん猫は一二歳に、弟猫は一一歳になった。そろそろ、加齢に伴う病気の可能性が高くなる年齢ではあるけれども、まだ、健康面に目立つ脅威は見受けられなかった。しかしながら、屋内で生活している飼い猫の平均寿命は、おおむね一五年程度と言われている。一緒に暮らせる残り時間は、長くて五年程度であろうか?  願わくは、私がそれまで猫たちを支えてやれますように。それだけが願いだった。自分自身の将来については、考えることもできなかった。ただ、なんとなく、「猫たちを看取って間もなく、自殺か、あるいは自殺に追い込まれるも同然の何かによって、生きられなくなって死ぬんだろう」と思っていた。それでかまわないと思っていた。せめて、猫たちを守りとおせたことに小さな誇りを持って死ねるようにしたかった。 ●第11回 実行されなかった完璧な自殺計画 〜「アレ」「ソレ」と呼ばれた私  目  次 退学させたい私を、 なぜ「リサーチ・アシスタント」に? イジメと悪意にさいなまれる日々 ハラスメントに気づき、 状況打開に試行錯誤する 研究室生活の終わり 敗北感と不安の中で、弟猫の闘病を支えて  二〇〇七年四月、私は茨城県にある国立北関東マンモス大学(仮名)の大学院博士課程に進学した。もともと半導体に関する計算機シミュレーションの企業内研究者だった私は、当時の勤務先の人員削減の嵐の中で断ち切られたままだった研究キャリアを再開し、研究と関連した定職に就きたいと強く望んでいた。しかし、障害者として生きることにまったく慣れておらず、生活を支えられるだけのヘルパー派遣も受けていなかった私は、茨城県にある大学の寮と東京の住まいの二か所で目まぐるしい二重生活を続けながら、二匹の猫たちともどもの生存・生活をやりくりしながら細々と仕事を続けていくことで精一杯。研究はほとんど進められないままだった。  研究が進められないことだけでも、心苦しく、焦りが募るばかりだった。それだけではなく、所属研究室の中で、私はしだいに白眼視されはじめた。社会人大学院生は、学業に専念できる背景をもった二〇代の大学生・大学院生ばかりの研究室の中では、異端視されやすい。しかも私以外は全員が男子学生であった。さらに二〇〇八年四月にやってきた修士一年のヨシハラ(仮名)に、私は激しい攻撃を受けるようになった。学力優秀で、研究においては同級生たちからも一目置かれているヨシハラが私を攻撃するたびに、私は「挨拶しあう」「軽い会話ができる」といった人間関係を失っていった。  研究室を率いていた指導教員のサド教授(仮名)も、研究が進まない私に対し、しだいにつらく当たるようになっていった。二〇〇八年になったころから、サド教授は私のすぐ近くに座っては、小さな声で「決断をしなくてはいけないんじゃないか」などと暗に退学を勧奨しはじめた。二〇〇八年後半に入ると、私は何かにつけて、研究室のメンバーの前でサド教授に大声で怒鳴られるようになっていた。ヨシハラに何をされているかをサド教授に相談するなど、考えることもできなかった。研究室の貴重な戦力であるヨシハラを、サド教授は非常に大切にしていた。私がヨシハラを問題にしたら、追われるのは間違いなく私の方だろう。  当時の私は、受けるべき配慮をまったく受けられず、教育を受ける権利も大きく侵されていた。しかし、それが異常な状態であるとは気づいてすらいなかった。私は研究を軌道に乗せ、博士号を取得したかった。その思いで頭が一杯になっていた私にとって、サド教授に怒鳴られて恥ずかしい思いをさせられることなど、どうということはない……。自分では、そう思っていた。でも、度重なる「怒鳴られる」「恥をかかされる」に加え、研究室にいれば必ず起こる「冷笑される」「仲間はずれにされる」といったことがらは、ボディブローのように私の精神を蝕み、正常な判断能力を失わせていたのかもしれない。 ★退学させたい私を、  なぜ「リサーチ・アシスタント」に?  研究がまったく進んでいないに近いまま、大学院二年目が終わろうとする二〇〇九年三月、サド教授は私に  「生活が大変みたいだから、リサーチ・アシスタントになって報酬を得てはどう?」 と打診してきた。アルバイト扱いのリサーチ・アシスタントとして、研究を行いながら、一時間あたり一六〇〇円程度の報酬が得られるという。年度あたりの総時間数には「三〇〇時間」という制約があるけれども、年間五〇万円程度の報酬を得ることができる。経済的には、ありがたい話ではあった。  「RA」と略称されることが多い「リサーチ・アシスタント」は、「TA」と略称される「ティーチング・アシスタント」ともども、日本の大学では大学院生への経済的支援の一つとして位置づけられている。いずれも、研究を遂行することそのもの・教員が講義中に行う小テストの採点などの研究・教育業務に従事することによって報酬を得る、というシステムだ。ちなみにRA・TAとも、米国の大学がモデルとなっている。米国では、ロースクール・メディカルスクール・ビジネススクールなどの専門職大学院を除いて、米国の一般的な大学院生は、研究室やプロジェクト単位で雇用され、研究や教育に従事していることが多い。コースワークと呼ばれる一般的な意味での教育を受ける一方で、実務を通して、将来、研究者や教育者になるために必要な訓練を受け、その実務によって報酬を得て生活し、学業を継続する。ちなみに学費は、自然科学分野では無料であることも珍しくない。学費が有料かつ高価な私立の大学院でも、さまざまな名目での学費免除制度や奨学金制度が用意されている。  サド教授の打診は、自分にとって良い話であるとは思えなかった。つい先日まで、「退学! 退学!」と繰り返していたサド教授が、非常勤・アルバイト扱いのRAとはいえ、私にポストと給料を用意するなんて。それは、口頭で退学を迫るよりも厳しい状況に私を置いて、学業の継続など思いもよらない状況に追い詰めるという目的があってのことではないだろうか? もしかすると、サド教授にそこまでの悪意はないのかもしれず、  「指導教員としてできるだけの支援と配慮はしましたけれども、本人がダメな人間なので研究が進められませんでした。もう、退学させていいですよね?」 というアリバイづくりがしたいだけなのかもしれないが……。著述業が「開店休業」に近い状態になってしまっていた当時の私には、月額約八万円の障害基礎年金だけが収入源だった。背に腹は代えられない。私はオファーを受けることにした。  その時期のサド教授は、相当の金額の研究予算を得ることができていた。研究分野が計算機シミュレーションであることを考えると、それは「破格の」といってよいほどの金額だったと言える。半導体分野で実験を伴う研究分野の場合、塵埃を極限まで排除した専用空調が必要だったり、高価な実験装置の存在が研究の最低の前提となることも多い。しかし計算機シミュレーションの場合、スーパーコンピュータを利用しなくてはならないほどの規模でない限り、一台二〇万円程度のパソコンが一〇台もあれば何とかなる。むしろサド教授には、予算を消化することに苦労している感じさえあった。その時期に研究室に導入された機器は、さまざまな機能を持つ複合機タイプのカラーレーザープリンターであったり、巨大な高性能シュレッダーであったり、高性能スキャナと電動裁断機であったりした。  もっともRAやTAとなる大学院生は、研究室やボスに雇用されるのではなく、大学に雇用される。サド研究室の研究予算が潤沢かどうかと私の身分の間には、一応は関係はなかった。  RAとなった博士課程三年次の私は、少なくとも勤務時間中は、明らかに「研究に専念している」と見える状況にある必要があった。当時、仕事はほとんどできていない状況にあったとはいえ、本業が著述業である私にとっては、「研究に専念している」ということを周囲の人々に対して示すことは困難な課題であった。著述業の仕事も、計算機シミュレーションも、研究室にいてもいなくてもできることだからだ。いずれも、最も求められるのはアウトプットである。私は、研究が進むのでさえあれば、学内のどこにいても良いはずだ。図書館でも、学食でも……。しかし、研究室にいる姿を他のメンバーに見せていなかったら、  「RAの給料をもらいながら図書館で原稿を書いてるんだろう」 と陰口をたたかれたり、そういう可能性についてサド教授に密告されるのは自明だ。シミュレーションの研究者たちは、しばしば、自明なこと・推測が容易なことを「そんなことはシミュレーションしなくても分かる」と嘲笑する。私が「RAの給料をもらいながら……」と陰口を叩かれる可能性もまた、「シミュレーションしなくても分かる」の類だった。つまり、私はRAとして勤務している時間帯、自分の息子であってもおかしくないような年齢の大学院生や大学生たちからイジメに遭っている研究室を離れることができないことになるのであった。  新年度とともに、RAとしての勤務が始まった。研究室に滞在している時間は長くなり、しかも、何か問題があるからといって「しばらく研究室を離れる」という選択をすることもできない。当然ながら、ヨシハラをはじめとする研究室のメンバーからのイジメに遭う頻度は増えた。さらに、イジメに遭うからといって逃げることもできないのであった。常識的な時間と頻度でトイレ休憩を取ることが精一杯だった。  あるとき研究室に、木材でできた大きな箱が届いた。縦横高さとも一メートルほどだっただろうか。中には、巨大なシュレッダーが入っていた。研究室のメンバーたちが箱を開け、シュレッダーを研究室内に設置した。木の箱は、通路に置かれたままだった。しかし、他のメンバーが通行することは一応は可能な状況であった。二足歩行しているのであれば、箱と机などの間をすり抜けることが可能だったからだ。  夜になった。研究室の他のメンバーは帰宅した。私はトイレに行こうとして、通路を木の箱が塞いでいることに気づいた。わずかな距離であれば歩行することができる私は、箱の横をすりぬけて研究室の入り口ドアまで行くことはできる。しかしそこから先、どうやって移動すれば良いのか。最寄りの多目的トイレまでの距離は五〇メートルくらいはある。歩行で往復するのは非常に厳しい。トイレくらいは何とかなっても、徒歩一五分の寮までどうやって戻れば良いのか。電動車椅子で廊下に出ないことには、どうにもならない。  私は、施錠されていたドアの錠を開けた。そして、研究室の前を誰かが通りがかるのを待った。一五分ほどで、廊下を歩く物音が聞こえた。私はドアを開け、通りがかった男子学生を呼び止め、通路を大きな木の箱が塞いでいて車椅子では出られなくなっている状況を説明した。男子学生は近くにある自分の所属研究室にいったん戻り、二名ほどの男子学生を連れてきた。彼らは、車椅子の通行に支障ない位置まで箱を動かしてくれた。私はていねいに礼を述べ、トイレに行き、しばらく研究に向かった後で寮へと帰った。 ★イジメと悪意にさいなまれる日々  それにしても、いつも幸運にも親切な誰かが通りがかってくれるとは限らない。「こういう問題は再発しないでほしい」と切実に思った。車椅子利用者としては、当然の願いだ。私は翌日、サド教授に前夜の出来事を話した。サド教授は  「ふーん? で、結局、なんとかなったんだろう?」 と軽く答えただけだった。  その後、「私がRAとして勤務している日の夕方や夜、通路に大きな障害物が置かれていて、車椅子では廊下に出られず、しかも他のメンバーは全部帰宅してしまっている」という出来事は、何回か起こった。シュレッダーが入っていた木の箱の時には、研究室メンバーの悪意であるとは考えていなかった。しかし、似たような出来事が似たような状況で何度も起こると、もはや「悪意にもとづいた行為ではない」と考えることは難しい。それでも私は、サド教授には何も言わなかった。「私が被害を受けている場合には、私が困らなくなるような対応は何も期待できないだろう」と確信していたからだ。私は、何か使える道具を使って障害物を動かしたり、廊下を通りがかる誰かを待って助けを頼んだりして、その場をしのぎ続けていた。  私は、主に障害者福祉の問題で悩んで、大学の学生相談室のカウンセラーのもとを時々訪れ、話を聞いてもらっていたが、私にとってはガマンならない干渉もなされた。当時の私は、学位取得まではとにかく「良い子ちゃん」でいなくては、と思っていた。  たとえば二〇〇八年一二月、私は障害基礎年金を受給し始めた。この時期、私には「障害を偽装している」という疑いがかけられていた。直接、その疑いを露わにしたのは、居住していた東京・アケボノスギ区(仮名)の紹介でやってきた訪問医療の神経内科医・シズカ医師(仮名)であった(連載第九回を参照)。疑いを露わにし、さまざまな詮索や攻撃を行うシズカ医師と私のやりとりは、本来ならば、サド教授も学生相談室のカウンセラーも、もちろん大学当局も知っているわけはない。しかし、カウンセリングの場で  「障害年金を受給できることになったので、経済面が少しラクになった」 と語る私に対し、カウンセラーは不機嫌そうな表情で「制度上は、確かに問題ないですからね」と答えた。当時のアケボノスギ区やシズカ医師などの医療関係者は、私に対し、「制度の不備や間隙を突いて不適切に障害者福祉を得ている」という見方をしているようであった。  二〇〇八年当時、私は技術系媒体で、入門レベルの技術記事の連載を行っていた。想定読者層が初心者に近い人々であればあるほど、正確かつ充実した内容を心がけたかった。充分な知識や経験を持つ人々に向けての記事であれば、誤りや不足は読者に補ってもらえる可能性もある。でも読者が初心者である場合、それはまったく期待できない。そこで、現役のエンジニアである友人たちトヨナカ氏・チバ氏・オギクボ氏(いずれも仮名)に協力を受けて連載を行っていた。全員が男性である。  三人の中でも最も多くの時間をこの連載に割いたトヨナカ氏(仮名)は、当時、勤務先で今後のキャリアの展開の見通しがない状況に置かれていた。私は、自分の連載がトヨナカ氏の次のステップの足がかりになればいいと思っていたので、数多くの機会を用意した。成果は、トヨナカ氏の貢献であることを可能な限り明記しつつ、記事内で紹介した。しかし、二〇〇八年春ごろから、トヨナカ氏は私の住まいで一緒に作業するとき、私に対して侮蔑的な態度をとるようになっていった。きっかけは、トヨナカ氏がいるときに、銀行からローン返済の残高不足で電話がかかってきたことであった(連載第六回を参照)。  私は、トヨナカ氏の行状について、学生相談室で嘆いた。二〇〇八年冬には、自分の性器を私に見せようとするところまで、トヨナカ氏の嫌がらせ行動はエスカレートしていた。私は毅然と「そのような行為をガマンしているわけにはいかない、出入り禁止!」と言い放ちたかった。私はもっと早くそうするべきだったのだ。しかし、学生相談室のカウンセラーは、  「もうちょっと穏やかに、時間をかけて、やんわりと関係を冷却させてはどうですか?」 と私にアドバイスした。自分の身に危険が迫っており、相手は男性の健常者、自分は女性で障害者だというのに?  二〇〇九年三月のある日、トヨナカ氏と絶交する決意を固めた私は、チバ氏に電話した。トヨナカ氏と私が二人でいるときに何が起こっていたのかを初めて知ったチバ氏は、電話の向こうで絶句した。そして「なるべく、二人きりにならないように、自分も参加する機会を増やすよ」と約束してくれた。  その翌日は、トヨナカ氏が東京の私の住まいに来て作業する予定だった。トヨナカ氏が来る予定時刻の前に、チバ氏がやってきていた。数十分遅れでやってきたトヨナカ氏は、高価な寿司の詰め合わせや私の好みそうな食材を抱えていた。そして、不自然に私を賞賛したかと思えば、唐突に恐怖を示したりした。  マグロの寿司を食べようとするトヨナカ氏に、一二歳のお姉ちゃん猫が近寄った。お姉ちゃん猫は、マグロが食べたいだけである。しかしその前に、私は自分の寿司数個からタネを外してワサビを洗い落とし、お姉ちゃん猫と一一歳の弟猫に与えていたので、お姉ちゃん猫を「やめなさい、お行儀悪い!」と叱った。諦められないお姉ちゃん猫は、床の上に座ってトヨナカ氏の顔をじっと見た。トヨナカ氏は、お姉ちゃん猫に見つめられながらマグロの寿司を飲み込んだ。そして、なおも自分の顔を見つめるお姉ちゃん猫に対し「お腹の中まで取りに来ないで!」と絶叫したのである。チバ氏と私は顔を見合わせた。  数日後、学生相談室でカウンセリングを受けた。「例の人物、絶交しました」と語る私に、カウンセラーは「そうですか……」とうつむいた。  私は、自分を虐待した両親から、身体的にも精神的にも自由になりたかった。大学院進学は、研究は、その後の進路は、それを支援してくれるものであってほしかった。でも実際に起こったことは、両親のようなもの、特に父親のようなものに周囲を取り巻かれてしまうということだった。 ★ハラスメントに気づき、  状況打開に試行錯誤する  私をRAとして処遇したことが錦の御旗になったのか、サド教授の叱責は激しくなるばかりであった。週に一時間程度の指導時間は確保されていたけれども、それは、サド教授の「指導はちゃんとやっているんですから」というアリバイ作りが目的だったのだろう。私が論文や研究の内容について話しているとき、すぐ横にいたはずのサド教授がいなくなっていたこともあった。見回すと、サド教授は少し離れたところでエアコンのコントローラーを操作していたりした。また、私が指導を受けている最中に、別の大学院生が近寄ってきて「先生」と話しかけて書類へのサインを求めたりした。その大学院生とサド教授は、そこにいる私がいないかのように、数分ほど雑談をしたりもした。私はますます自分を責めた。自分の努力が足りないから、結果を出せないから、自分はこんなにも軽く扱われるのである。  私はガマンできず、ツイッターで愚痴をこぼすようになった。「アカデミック・ハラスメントを世間に知らせている」という意識はまったくなかった。それどころか、ハラスメントであるとも思っていなかった。しかし、直接知っている別の国立大学の若手教員が、「研究室運営に問題があると思う。そちらの大学にはハラスメント対策委員会があるから、相談してみては」とアドバイスしてくれた。私は「これってハラスメントなのかなあ?」と思いながら、相談担当となっている教授に連絡を取り、相談してみた。優しそうな、理系分野の中年の女性教員だった。その教員は、私の話を聞きながら、涙ぐみ、泣き出してしまったのである。  私は内心、「えっ、えっ、えっ?」と当惑した。話を聞いただけの他人が泣くほどのことであるとは、考えてもいなかったのである。涙ぐむ女性教員を目の前にして、私は「同じような話を、自分が他の女性から聞いたら、どうするだろうか?」と考えてみた。私だったら、泣きはしないだろう。そして、ロクでもない状況から一刻でも早く離れるように、相手を説得するだろう。渋っていたら、声を荒げるかもしれない。腕を引っ張って強引に問題の人物や場から引き離すかもしれない。そして、しかるべき機関へ行って対処を求めるように勧めるだろう。もしかすると、自分で付き添うかもしれない。今の私のように状況がこじれてしまっている場合、大学のハラスメント対策委員に相談をするなんて、もはや何の解決にもつながらないだろう。適切な第一の相談先は、日弁連だろうか? 並行して法務局にも行っておいたほうがよいだろう。文科省は当てにならないだろうし……ここで私は初めて、「自分はロクでもない目に遭っているのかもしれない」と認識したのであった。  しかし、サド教授の強い勧めのもと、私は二〇一〇年四月から休学することにした。「休学中も研究はできるし、自分も、休学中だからといって指導をしないわけではないから」というのが、サド教授の言い分であった。  この時期、研究室での状況を打開しようと、私はさまざまな試行錯誤を行っていた。やっと、「研究だけを問題にしていたのではどうにもならない」という自覚を持ち始めたのである。試行錯誤の一つは、電動車椅子のシーティング(座位姿勢)を改善することだった。日本における座位支持装置の第一人者であるミツノさんのブログを偶然見つけ、愛読者になっていた私は、「重い認知症と考えられていた高齢者が、適切な座位支持装置によって知的水準を回復し、不可能と考えられた言語によるコミュニケーションや自力での食事摂取を再び行えるようになった」といったエピソードに接した。ミツノさんのブログにあったのか、そこからリンクをたどっていった先にあったのかは、よく覚えていない。  当時の私は、常時、重苦しいウツ気分を抱えており、どう自分を励ましてみても意欲が沸かなかった。身体はだるく、錘を仕込んだかのように重く感じられた。毎朝、目が覚めたら既に疲弊しており、眠っても眠っても疲労感が抜けることはなかった。それどころか、車椅子の上で起き続けていることも困難になっていた。意識はモヤがかかったようで、考え事や読書といった精神の集中を要することを五分連続して行うことが困難になっていた。しばしば意識が遠のくため、道路の走行や交通機関の利用を危険なく行うことも困難になりつつあった。そんな状況で、研究のような知的作業を行うことは不可能であろう。しかし、何が問題でそうなってしまったのかは、自分では分かっていなかった。大げさにいえば、私は車椅子のシーティングに最後の望みを託したのである。  それまでも、高齢者施設で行われている工夫を読んで学び、自分の車椅子のシーティングの改善を我流で試みてきてはいた。それらの工夫の数々には確かに、食事とレクリエーションの時だけ起きて車椅子に座る高齢者たちの座り心地を改善し、高齢者たちのQOLを少しだけ高める効果はあったようである。しかし、一日のうち一四時間程度を車椅子の上で過ごすこともある私にとっては、それらの工夫は「焼け石に水」「しないよりマシ」程度のものであった。もしかすれば、ミツノさんのようなプロフェッショナルの意見や製品を取り入れれば、何かが劇的に変わるかもしれない。もし、目が覚めたらすでに疲れているような毎日から解放される近未来があったら、どんなに良いだろうか……。  二〇一〇年三月下旬のある日、ミツノさんに紹介された車椅子業者のコバヤシさんが、東京の住まいに、シーティング改善装置のデモ機を持ってきてくれた。折りたたみ式の座椅子のように見えるその装置を通常の車椅子の座面に置くと、三〇万円以上の北欧製車椅子と同様に、身体に負荷を与えずに長時間の車椅子利用を行うことができるのだという。価格は三万円。車椅子の上で過ごす時間が一日あたり三時間程度なら、その装置でも充分なことが多いそうだ。アケボノスギ区から交付された通常型の簡易電動車椅子に、半信半疑でその装置を組み合わせて座ってみた私は、数時間後、意識がクリアになっている自分に気づいて驚いた。数日のうちに、身体のだるさや重さは、気にならないほどにまで軽減した。 ★研究室生活の終わり  二〇一〇年四月一日。サド教授からメールが届いた。翌日、研究室の新メンバーも含めた顔合わせと打ち合わせをするという。研究室の打ち合わせを知らせるメールが私のもとに届いたのは、これが初めてであった。そして、最後であった。私は休学中ではあったが、取るものもとりあえず、猫たちに水とドライフードを用意し、あたふたと北関東マンモス大学に向かった。その晩は、寮の自室に宿泊した。  翌日は四月二日。打ち合わせは午後一時三〇分から予定されていた。研究室内にあるミーティングコーナーで待っていると、サド教授がやってきた。そして「みわさん、これから打ち合わせなんだけど?」と言った。まるで、私がそこにいてはならないかのようであった。私は「打ち合わせだから来ているんです」と答えた。サド教授は、異物を飲み込んだかのような顔をしていた。三々五々、研究室の他のメンバーが集まってきた。ヨシハラも、学部四年生のタケダ(仮名)もいた。  打ち合わせでは、研究室のネットワーク環境が問題になった。基本的に悪人はいないことを前提として運用されているネットワーク環境なのだが、帰省中の実家から・あるいは本来の学籍が別の大学にあるヨシハラが所属校からアクセスするなど、外部に対して開く必要性が発生したからである。外部に対してネットワークを開くということは、外部から攻撃される可能性を意味する。企業や研究室などの閉じたネットワークを外部から利用する必要性は、テレワーク・在宅勤務などでも発生する。専属のネットワーク管理者を雇用できない企業でも安全に運用できるように、二〇〇一年ごろから数多くの機器が開発され供給されている。価格も、それほど高価なものではない。そういう機器を導入すれば、問題は全部解決するのである。  しかし、誰が何を用いてどのように行うかは、私があずかり知らないところで決まっていたようであった。入ってきたばかりの学部四年生・タケダは、私が何か言うと全力で反論した。その内容は、理由になっていない理由をあげての強弁に近いものであった。私はさらに反論した。他のメンバーは、気まずい顔で息を飲んでいた。修士一年のキタタニ(仮名)が「休学中のくせに!」と私に舌打ちしたりもした。  韓国からの留学生である学部四年生のパク(仮名)が、私の顔を見て「いつも、打ち合わせはこうなんですか?」と言った。その数日前、パクとは少しだけ話したことがあった。パクは私を「安心して何かを尋ねていい人」と認識していたのかもしれない。私は「さあ、知らない。私、初めてだから」と答えた。パクは「え? みわさん、前からこの研究室にいるんでしょう?」と言う。私は「そうだけど、打ち合わせをやるって知らせられたのは初めてだもん」と答えた。事実、その通りだったから。するとサド教授は「みわさん、いつも打ち合わせをやるって言っても、来なかったじゃないか!」と怒鳴った。私は「打ち合わせをやるというメールを、私は昨日、初めてもらいました。だから、この研究室には打ち合わせはないんだと思ってました」と答えた。  何か言われても、間髪入れずに言うべきことを言い返せる自分。一週間前とはまったく違う、生命力のある自分。私は、それが本来の自分だったということを数年ぶりに思い出した。その秘密は、自分の腰の下と背中の後ろにあるシーティング改善装置にあった。サド教授は、「やっぱり、みわさんが攻撃的な雰囲気を出しているから、周囲の人間が攻撃的になるんだよ」と言い、そそくさと打ち合わせを終わらせた。  その時の私は、すでに、追い出される人間であるということをサド教授に決定されており、研究室のメンバーにも周知されているようであった。打ち合わせの後、キタタニとタケダは、新しいメンバーの座席の位置や本棚の置き場所を相談し始めた。タケダは私を指さして「アレの席はどうするんですか」「ソレの車椅子があるから」などと言った。キタタニは「タケダくん、一応先輩なんだから、アレとかソレとか言うなよぉ」と諭すふりをした。皮肉たっぷりの口調だった。  私はいたたまれず、研究室を出た。ソメイヨシノが美しく咲いていたキャンパスの中で、研究室のある五階建ての建物を見上げた。その建物の四階で、二一歳の大学四年生に「アレ」「ソレ」と呼ばれた四七歳の自分。背景や理由はともあれ、そんな扱いを受ける自分など、存在してはならない。自分がそんな扱いを受けることがあってはならない。でも、それとなくサド教授が奨励しているのであれば、タケダに抗議しようが誰に何を言おうが、人間として扱われない自分の状況は変えようがない。であれば、ふざけた扱いを受けないために、私はこの世から消えるしかない。大学院を辞めることなんか、解決にならない。一九九八年、当時の勤務先から退職させることを目的としたイジメや嫌がらせに遭い始めて以来ずっと、東京の住まいは傍受・盗聴や干渉に踏み荒らされ続けている。二回引っ越したけれども、状況は変わったとは思えない。どこに引っ越しても、私が生きている限り、その許しがたい状況は続くのだろう。  私は、すぐに自殺しなくてはならないと思った。どのみち、それほど長く生きられるとは思っていなかった私は、当時一二歳のお姉ちゃん猫と一一歳の弟猫を見送ったら自殺することになるのだろう、と思っていた。長くても、向こう五年程度のことだろう。でも、もう、向こう五年などという猶予はないと思った。今すぐ、死ななくては。なにしろ私は「アレ」や「ソレ」なのだ。「アレ」や「ソレ」になった、人間ではなくなった人間など、生きていてはならない。すぐに「アレ」「ソレ」と呼ばれるにふさわしい、ただの物体にならなくては。猫たちの老後や最期を見届けてやれないのは心残りだが、誰か信頼できる人に猫たちをお金とともに託して、なるべく早く死ななくては! ★敗北感と不安の中で、弟猫の闘病を支えて  その後も、タケダからはさまざまな嫌がらせを受けた。たとえば、輪講で購読する書籍の電子データを、タケダは著作権法を理由として私に渡さなかった。本当に輪講に参加する気があり、必要だと思うのならば、東京から茨城県まで取りに来てほしいというのである。大学院教育で利用する場合、著作権法には適用除外規定があるため、電子データを私に渡してもまったく問題にならない。しかし、私がそれを説明しても、タケダは「大学の研究室まで取りに来てください」と繰り返すだけだった。そういうやりとりがあったことは、サド教授も知っていた。私は、タケダとサド教授に同報でメールを送ったからである。タケダは返事する時、私にだけ返事していた。意図的にサド教授を外したのであろう。サド教授からは、その件に関しては、何の反応もなかった。  それにしても、著述を業とする人間が、著作権法を理由として嫌がらせをされるとは。相手は、知的所有権についてまったく無知といってよい大学四年生。自分は、著作権法・特許法など知的所有権に関するルールの上で、研究者としてライターとして、二〇年にも及ぶ活動を続けてきた人間。それなのに、自分自身も、自分のささやかな実績も、何もかもが否定されているも同然ではないか。ここまで全人的に否定された私は、生きているべきではない。生きるに値する人間だったら、こんな扱いを受けるわけはない。  ……私は、完璧かつ最大の効果を挙げられるであろう自殺計画を練った。時期は、大学が休みになり問題への対応が後手に回りやすいゴールデンウィーク期間中、それも連休の初日か二日目。夕方のうちに、研究室の窓が視野に入る建物の窓に、Webカメラ・小型パソコン・通信機器などを設置しておく。研究室の窓とその周辺をインターネット配信できるように準備する。夜明けの三〇分ほど前に配信を開始し、私は研究室の窓から外にロープを出して首を吊る。夜明けとともに、研究室の窓にぶら下がっている私の死体がインターネット配信されるのだ。並行して、遺言状も用意した。猫たち・猫たちの余生を支えられる程度の現金を、猫たちを幼少のときから知っている猫好きのチバ氏に間違いなく譲渡できるように。さらに手続き。誰がどう手続きするのか。その時、私は死んでしまっているのだから。でも、手続きに関する問題もクリアした。あらゆる面で、手抜かりのない計画だったと思う。あとは実行するのみであった。チバ氏には申し訳ないが……。  しかし、実行には至らなかった。二〇〇九年末に甲状腺機能亢進症を発症していた一一歳の弟猫の症状が、二〇一〇年四月半ばに急激に悪化してしまったのだ。この状況で、弟猫を遺して死ぬわけにはいかない。  二〇一〇年のゴールデンウィークは、体調を崩した弟猫と彼の病気と付き合いながらのテンヤワンヤで過ぎた。今にして思えば、弟猫が私を生き延びさせてくれたのである。しかし当時の私は、それを「幸運」と考えることはできなかった。私は、「人間として考えられる最大に近い侮蔑を受けた」と感じていた。自分は生きるに値しない人間だから、せめて自分を消そうと思った。それで、自殺を計画した。その計画を遂行できなかった。私が何かを実行することのできる人間であれば、猫がどうなろうが自殺できたはずだ。私は研究を進められなかった無能人間である上に、自殺も実行できなかった最低人間だ……。  二〇一〇年五月、お姉ちゃん猫は一三歳に、弟猫は一二歳になった。初夏から夏にかけての弟猫の症状は、好転したり悪化したり、なかなか安定しなかった。そして、「自殺もできないやつ」と自分を責めながら迎えた二〇一〇年八月、大きく症状を悪化させた弟猫は、夏が越せるかどうも危ぶまれるほど危機的な状況に陥ったのだった。  そこに、さらなる追い打ちが加わった。元気いっぱいだったお姉ちゃん猫にも念のために血液検査を受けさせてみたところ、高齢の猫に多発する慢性腎不全に罹患していた。しかも、すでにステージV(猫の場合はステージWが最終段階)まで進行していた。目の前が真っ暗になった。  とにかく、自分の自殺を考えている場合ではなくなってしまった。二匹の猫たちの「お母さん」として、猫たちを守り、できるだけのことをしてやるためには何をすればよいのか。目の前にいる猫たちを守るために、私は今、何をすればよいのか……。  いつのまにか、私は猫たちを中心に、自分の生活を再構築しはじめていた。思い浮かべるだけで吐き気を催しそうになるサド教授や研究室の人々のことは、なるべく考えないようにした。その人たちは、私が自分を守るためにも猫たちを守るためにも、有害無益なだけの存在なのだから。しかしサド教授たちの幻影は、思い出したくなくても、フラッシュバックとして突然思い出された。あるいは、悪夢として現れた。時にフラッシュバックや悪夢に脂汗を流しながら、私は猫たちの体温に自分を取り戻した。  当時の私の毎日は、弟猫に服薬をさせ、嘔吐などの症状のたびに応急手当をし、食欲を失っていた彼に食事を口にしてもらうための「あの手この手」の工夫で明け暮れした。その毎日は、奇妙な幸福感を伴っていた。  おそらく私は、男性社会で成功することができず、決定的な敗北をしてしまった。そして、二匹の猫と自分という小さな家庭の、女性的な小さな幸せの世界に押し込められてしまった。女性の障害者に「ふさわしい」とされる世界から、私はついに脱出することができなかったのだ。でも、どのように自分を責め苛んでも、腕の中にいる弟猫の体温と柔らかさと滑らかな毛ざわりは変わらなかった。  少し食欲の湧いてきた弟猫が、やっとのことで小指の先ほどの食事を口にして飲み込んでくれると、私は自然と満面の笑顔になった。弟猫も、誇らしげな笑顔を浮かべた。私は喜び、弟猫を賞賛した。すると弟猫は、もう一口食べようと頑張ってくれた。そして、そういう繰り返しをしている時の、胸の熱くなるような実感。「これこそが、幸福感という言葉の実体なのだろうか?」と私は思った。四七歳にして、初めて理解した「幸福」と「幸福感」だった。  当時の私は、対外的には惨めな敗者でしかなかった。そのことは、毎日、痛いほど自覚しつづけていた。経済的には、障害基礎年金だけが収入源という状況だった。自分の日常生活のための費用は、障害基礎年金の範囲に切り詰めていた。そして、ほとんど使わずに貯蓄していた学生支援機構の奨学金を少しずつ取り崩しながら、猫たちの医療費や補装具費用の自費負担分をまかなった。弟猫の体調が少し良好なときには、地方に出かけて予備取材を行うこともあった。ときには、費用のかかる勉強会にも参加した。それらは、自分自身の「将来のいつか」に備えての活動だった。「将来のいつか」など、私には、もうないかもしれないのに。  対外的には明るく活動的に振る舞いつつも、私の心中は不安でいっぱいだった。いつまで、こんな生活を続けなくてはならないのだろうか? いや、いつまで続けられるのだろうか? 貯蓄が尽きる前に、私は再起できるだろうか? 経済的にも社会的にも根無し草になってしまったかのような自分。この世と自分をつないでいる唯一のよすがは猫たちだけ、という現状。ときどき用事を思い出したふりをしては電話をかけてくる父親は、毎回、世間話のついでめかして、「つつましく生きていければ、それで良いだろう?」と言う。世間から見れば、私はまったく再浮上の可能性のない敗者なのだろう。ゆくゆくは生活保護のお世話になり、世間の片隅でひっそりとつつましく、目立たないように「生きさせていただく」以外の選択肢はないのだろう。だから父親は「つつましく生きていければ、それで良いだろう?」と繰り返すのだろう。誰から見ても決定的に失敗した敗者の私に、他の可能性はないだろう。それなのに、予備取材や勉強会でお金を使って良いのだろうか? 猫の医療費は、自分では「必要不可欠」と思っているけれども……。  不安材料も、自責の根拠も、無限に数え上げることができた。しかし、その冷酷な現実を認識することは、弟猫の闘病を支える中で私が感じ始めていた幸福感を、猫の毛一本ほども損なうことがなかった。 ●第12回 「シンドラーのリスト」のテーマ曲に導かれて 〜猫の闘病が立ち直らせた私  目  次  できるだけのことはしてやりたい、  でも、どうやって?  弟猫の新しい一面を発見する日々  猫たちとの毎日を支えた新しい車椅子  将来への希望を託して進学した国立北関東マンモス大学大学院(仮名)博士課程で成果を上げられず、二〇一〇年四月に休学を余儀なくされた私は、間もなく二匹の猫たちの闘病に全力で立ち向かわなくてはならないめぐり合わせとなった。二〇〇九年一二月に初期の慢性腎不全であることを指摘されていた弟猫は、五か月後の二〇一〇年四月に甲状腺機能亢進症を発症した。薬剤によるコントロールになかなか成功せず、二〇一〇年八月、弟猫は一二歳の夏を越せるかどうかも危ぶまれる状況に陥った。一三歳のお姉ちゃん猫にも血液検査を受けさせたところ、彼女も慢性腎不全に罹患しており、すでにステージVまで進行していることが判明した。  猫の慢性腎不全の病期分類は、おおむね人間と同様である。人間の場合との大きな違いは、人間には透析によって延命を行うことのできるステージVが存在するけれども、猫にはそのステージVがないということだ。猫に対して日常的に血液透析を行って延命することは、もし費用面の問題がないとしても、現実的な選択肢ではない。透析を行うならば全身麻酔が必須となるのだが、透析によってしか救命できない猫に全身麻酔を行えば、高い確率で麻酔事故が発生するだろう。腹膜透析は不可能ではないけれども、そのための手術自体に同じ理由で困難が伴う。というわけで、猫の場合はステージWが最終ステージとなる。つまり、お姉ちゃん猫は最終ステージの一歩手前なのだった。  甲状腺機能亢進症・慢性腎不全とも、高齢期の猫に多く見られる疾患ではある。屋内で飼育されている猫の平均寿命は一五年程度といわれている。一三歳のお姉ちゃん猫と一二歳の弟猫が、それらの病気を抱えるようになったことは、自然のなりゆきではあるだろう。しかし私は、大きな衝撃を受けた。そして自分を責めた。遠く離れた北関東の大学院との二重生活を含めて、私の活動は猫たちが健康だからこそ可能だったのだ。なのに、私はふだん、猫たちの健康を充分に顧みていただろうか? ……たぶん、配慮は不足しすぎていたのだ。充分に配慮していれば、お姉ちゃん猫がいきなり「慢性腎不全ステージV」と判明して慌てることはなかったはずではないか……。 ★できるだけのことはしてやりたい、  でも、どうやって?  私は、「猫たちに、できるだけのことはしてやりたい」と思った。しかし我が家には、充分な費用があるわけではない。ほとんど使わずに貯蓄していた学生支援機構の奨学金(それは借金なのだが)はあったけれども、私の著述業は、当時、ほぼ開店休業に近い状況だった。猫たちが病気していなくても、生活にはお金が必要だ。減っていく預金残高を眺めながらの生活は、精神衛生上まことによろしくない。だからといって、猫たちの闘病にかける費用を惜しみたくはない。少なくとも、見送った後に「お金がなくて、してやれなかった」という後悔を残したくない。でも、できることは経済的には非常に限られている。今は仕事が開店休業状態だから時間だけはあるけれども……。  堂々めぐりの思考は、長くは続かなかった。私は猛然と、猫たちの病気についてインターネットで調べはじめた。特に力を入れて調べたのは、慢性腎不全であった。二匹とも罹患していたからである。また、弟猫は甲状腺機能亢進症と慢性腎不全の両方を抱えており、どちらも慢性の基礎疾患という位置にはあるのだが、どちらがより基礎疾患であるかといえば、おそらく慢性腎不全のほうであろうと考えたからだ。  では、猫の慢性腎不全とは、どういう病気なのか。どのような経過をたどるのか。どのような治療があり、どのような効果を望むことができ、いくら必要なのか。集中的な、いくばくかの「資本投下」に効果のある時期があるとしたら、それはどの段階で、いくらあれば充分なのか……。インターネットで調べものをしているうちに、獣医師・コミヤマ先生のサイトにたどりついた。簡潔かつわかりやすい言葉づかいで、経過や治療法が記されているコミヤマ先生のサイトは、慢性腎不全の猫を抱えた多くの人々に支持されている。そこで私は、猫の病気について現在わかっていることは犬よりも少ないこと、もちろん人間に比べればはるかに少ないことを知った。  ちなみにコミヤマ先生は、家庭での猫への皮下補液療法を日本にもたらした人物である。皮下補液療法は慢性腎不全の猫のQOLを高めて維持するために非常に有用なうえ、自宅で飼い主が行うのであれば費用負担も少ない。しかも猫にとっては、なにかとストレスフルな動物病院ではなく、リラックスできる「我が家」で治療を受けられるというメリットがある。二〇一一年初夏、私は文筆業への復帰をかけ、編集の訓練も兼ねて無料メルマガ「慢性腎不全の猫と生きる」を創刊した。このメルマガに掲載する目的で、二〇一一年秋、コミヤマ先生にインタビューをお願いした。そして、ご本人から直接、この功績を聞いたのだが、まだ記事化できていない(コミヤマ先生、すみません)。  私は「慢性腎不全について学ぶならば、人間の慢性腎不全について学び、猫に適用できる部分を取り入れたほうがよさそうだ」と考えた。自分の病気で病院に行けば、慢性腎不全の治療に関するパンフレットを手にとって読みあさった。近くにあるアケボノスギ区立図書館(仮名)に配架されていた慢性腎不全の本は全部読んだ。物足りなくなった私は、医学・生物学の専門書に手を出しはじめた。ある日私は、ある大学の図書館で、難解な教科書として知られる「The Cell」の日本語訳を手にとっていた。腎臓にはどういう細胞があり、どういう働きをしているのか……。「難しい本だから、わからないかもしれない」という怖れは、不思議なことにまったくなかった。  そのうちに、私は臨床獣医学の論文まで読むようになっていた。それまでずっと応用物理学やICT技術の世界にいた私にとっては、初めての用語・馴染みのない方法論のオンパレードである。しかし、だからといって理解が妨げられることはなかった。わからない用語は調べた。馴染みのない方法論は「へえ、獣医学の世界ではこういうふうにするのか」と面白がりながら理解した。一つひとつの論文が、それぞれ、猫たちと私の日常を少しでも向上させてくれる何かをもたらしてくれた。私は次から次へと、関連論文を読みあさった。論文の多くは、国立北関東マンモス大学図書館のインターネットサービスを通じて、無料で読むことができた。当時の私は休学中ではあったが、学籍があったため、図書館を利用することができたのである。  さらに、お姉ちゃん猫が生後一か月で我が家にやってきた一九九七年からお世話になっている近所の動物病院の院長・ハヤシ先生と、ハヤシ先生の動物病院のスタッフである獣医師の方々も、私が専門書や論文を読むことができると知り、最新情報が掲載された書籍や雑誌のコピーを手渡してくれるようになった。いつしか獣医師さんたちと私は、知識や知見やデータを共有し、互いに納得できるまで議論して治療方針を固め、協力して治療に当たる関係を築き上げていた。治療されたのは猫たちだけではなかった。私自身も癒されていたのだ。北関東マンモス大学のサド研究室(仮名)で決定的に破壊された私の他者への信頼を回復させるにあたって大きな力を及ぼしたものの一つは、獣医師さんたちと猫たちの治療に取り組むプロセスそのものであったと思う。心から感謝している。  それにしても、猫たちの闘病に取り組みはじめた二〇一〇年夏当時の私は、本当に何も知らなかった。そもそも、猫の腎臓がどこにあるのかさえ知らなかった。「腎前性」という言葉を見れば「腎臓の前の何かを指しているのだろう」というアタリくらいはつくのだが、「腎臓の前って、方向でいえばどっちなんだろう?」と悩んでしまう有り様だった。ちなみに「腎前性」とは、「腎臓に血液が流れ込む前の段階」ということである。  臨床獣医学の論文では、個別の症例研究・コホート研究(集団での追跡研究)など回顧的研究が主となっている。コホート研究の論文では、多い場合には一〇〇〇頭、長い場合には一〇年程度の経過観察を行った後、結果の統計処理が行われている。その結果、たとえば慢性腎不全であれば「診断時にステージVだった猫の余命の中央値は約二年」「余命に最も強く関連していたのは血中リン濃度」といったことが明らかにされる。私は、統計がまったくわからないわけではないのだが、医学分野での統計の使い方には馴染みがなかった。しかし幸いなことに、私には、疫学の研究者であるマサコさんという若い友人がいた。マサコさんは現在進行形で、人間のさまざまなコホート研究に取り組んでいる。私はコホート研究の論文が理解できないと、マサコさんに「ちょっと教えて」と尋ね、その分野での統計の考え方や結果の読み方を少しずつ教えてもらった。一〇月ごろには、少なくとも臨床獣医学の論文であれば、「読んでも理解できない」ということはなくなっていた。もちろん、知らない用語や病名は次から次へと出現するのだが、調べれば済むことである。  そうこうしているうちに、私は、北関東マンモス大学の指導教員であったサド教授が私にぶつけた言葉の数々を、一つひとつ、根拠をもって疑えるようになった。サド教授はしばしば  「小説や普通の本は読めるけれども論文は読めない、文字を追うことくらいはできているけれども読めていない、小説なんかをパラパラ読むのと論文を読むのはまったく違うんだ」 と私を罵倒していた。私はその「読めない」という言葉に強く傷ついていた。論文を読んでも「どうせ自分には読めない」と、思考が空回りするようになっていた。そればかりではなく、一般の書籍や雑誌まで、「本当は読めていないのではないか」という恐怖で、読んでも頭に入らなくなっていた。でも、私がその時に読んでいたのは、まさしく論文だ。分野は臨床獣医学で、サド教授の専門である半導体物理とは異なるけれども。私は論文だって読めるし、専門書だって読める。サド教授からしてみれば、もしかすると臨床獣医学なんて、分野ごと容易すぎる上に対象はたかが動物。一顧の必要もない、取るに足りないものなのかもしれない。でも、おそらく、サド教授の研究で私が直接救われることはない。一方で、目の前の臨床獣医学の論文は、役に立つ何かを私たちに差し出してくれている。どちらが私にとってより有用かは、言うまでもない。  論文を一ページ読むたびに、薄い紙を一枚一枚剥がすように、サド教授が私に植えつけた恐怖が消えていくような気がした。そうして私は、少しずつ少しずつ自信を回復させていった。 ★弟猫の新しい一面を発見する日々  二〇一〇年の夏、二匹の猫たちと私は、ほとんど寝室にいた。深刻な病状の続く弟猫の生命維持のため、エアコンを使用しないわけにはいかないけれども、一部屋だけにしたかった。また、食欲をなくしていた弟猫が何か食べられそうなとき、すぐに食事を用意して食べさせるためにも、私は弟猫の横にいたかった。猫たちの日常の寝場所でもある寝室に、私はパソコンを持ちこんで作業や調べ物をしていた。BGMは、映画『シンドラーのリスト』のテーマ曲であることが多かった。明るい曲を聴く気にはなれない。悲しい曲を聴く気にもなれない。『シンドラーのリスト』のテーマ曲は物悲しい音楽ではある。そもそも、その映画はナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺という陰惨な事実を描いた作品だ。しかし、虐殺されたユダヤ人の総数に比べれば「大海の一滴」というような人数ではあるが、ドイツ人実業家・シンドラーによってユダヤ人たちが救われ、生き延びるというストーリーだ。私は「シンドラーに救われるユダヤ人たちのように、弟猫が助かりますように」という願いを込めながら、音楽に耳を傾けていた。  弟猫が食事を摂ってくれないことには、非常に困惑した。甲状腺機能亢進症がコントロールできていなかった当時の弟猫は、常時、胃に不快感を感じていたものと思われる。非常に素直な性格の弟猫は、服薬を含め、多くの治療行為を嫌がらずに受け入れてくれた。口を強制的に開けられ、喉の奥に錠剤を置かれて飲み込ませられるという毎日の服薬を、彼は嫌がりつつも受け入れてくれた。しかし、同じように食べ物を強制給餌されることは、絶対に拒むのだ。お姉ちゃん猫と私に溺愛されて育った弟猫は、「甘やかされた末っ子」そのもののキャラクターで、可愛さをアピールする術に長けていた。その弟猫が強制給餌を断固として拒むとき、私は彼の猫としての誇りを垣間見た気がした。弟猫が「自分の生存にかかわる行為の主体は、あくまでも自分でなくてはならない」と考えていたかどうかはわからないけれども、当時の彼は、こと「食」に関わることに関しては、他者の強制を絶対に受け入れなかった。  強制給餌を断念した私は、弟猫が少しでも食欲のわきそうなタイミングを狙って「ごはん食べる?」と食事を差し出すことにした。睡眠から目覚めた直後は、逃すことのできない重要なチャンスである。夜中の二時であろうが、前回の食事から三時間も経過していなかろうが、私は弟猫が目を覚ましそうなときに不思議に目覚めた。そのうちに弟猫は、何か食べられそうな時、口をクチュクチュと動かして「今、ごはん食べられそう」という意思表示を行うようになった。私が「食べてほしい」と強く願っているのを理解した彼は、自分が少しでも食べられそうなときに食事を出してもらえるように、自分なりに方法を考えたのであろう。  とはいえ、食欲をなくしていた彼が一口で食べられる量は、ほんの少しだった。一口食べると、私は大喜びする。その私を見て、彼も誇らしそうな笑顔を浮かべる。そしてもう一口食べてみようとしてくれる。その繰り返しは、多くても十回程度だった。一回の食事で、大人の小指の第一関節から先ほどの量が食べられれば上出来だった。それでも、食べてくれたこと、食べようと努力してくれたことが嬉しかった。食後、私は弟猫を抱いて身体を縦にし、背中をさすったり軽く叩いたりした。空気を飲み込んでいるのなら、嘔吐しないでゲップしてガスだけ出してほしいからでもある。そういうとき、私の口からは自然に、  「むすこ むすこ いいむすこ ゆっちゃん いいこだ うれしいな」 というような言葉が流れだした。「ゆっちゃん」というのは、弟猫の名前が悠(ゆう)だからである。何度か繰り返しているうちに、歌のように節がついていった。そのうちに、弟猫の体調は少し持ちなおしてきた。完全に自力で充分な量の食事を摂るには至っておらず、タイミングを見て私が「ごはん食べる?」と食事を差し出すことは必須であったが、食後の抱っこと「むすこ むすこ いいむすこ……」という歌は、弟猫と私の楽しい習慣となった。    二〇一〇年八月の終わり頃、私は寝室に持ち込んだパソコンで、その歌を録音することにした。最初は歌を入れず、ストリングスの四部合奏ということにした。インターネットには無料で利用できる優れた音楽ツールがたくさんあった。それらツールの一つを使って、四部をそれぞれ録音する。上の二部と下の二部を合わせて、バランスを調整し、最後に四部を合わせる。作業の一通りを、かなり回復していた弟猫が横に座って見守っていた。最後に四部を合わせ、曲が立ち上がってくると、弟猫は「へえ!」という表情を浮かべた。音楽の好きな私に育てられた猫たちは、もともと音楽を好むようになっていた。往年の名ピアニスト・リパッティが演奏するショパンのワルツ集を流していたところ、お姉ちゃん猫がスピーカーの真ん前に陣取って「聴き入る」という様子でいたこともある。しかしどうも、少なくとも弟猫は、「聞いて何となく快い」以上に音楽を理解しているようだ……。  九月のある夕方、私は『シンドラーのリスト』のテーマをハミングしながら料理をしていた。傍らには電動車椅子のバッテリーの充電器があり、充電中だった。上に弟猫が座っていた。彼は、ほんのりとした充電器のぬくもりが大好きなのである。私は、弟猫が音楽に合わせて頭を振っていることに気づいた。最後、この曲はリタルダンド(減速)する。私はハミングをリタルダンドさせて終わりへと向かった。弟猫はリタルダンドに合わせて、ゆっくりと頭を振った。もしかして弟猫は、アゴーギク(音楽のリズムの自然な揺れ)を理解できる猫なのか!?  その数日後、私は浦島太郎の歌の替え歌を歌っていた。弟猫が小さい時から、よく歌ってやっていたその替え歌は  「むかしむかし カーチャンは 助けた猫を 抱きしめて おうちに帰ってきてみたら絵にもかけない面白さ」 というものである。弟猫は生後一か月程度のころ、母猫とはぐれて空き地で迷っていたところを、地域商店街の方々に保護され、我が家にやってきた。私は、そのいきさつを替え歌にして愛唱していた。いつもの歌を嬉しそうに聞いていた弟猫に、  「ゆっちゃん、幸せかい?」 と話しかけると、  「にゃーっ!」 という返事が帰ってきた。私たちは  「幸せかい?」  「にゃーっ!」  「幸せかい?」  「にゃーっ!」 という会話を繰り返した。過去、バンドなどさまざまな音楽活動を行ってきた私だが、この、猫一匹だけを観客とした小さな「コンサート」ほど嬉しい反響を経験したことはなかった。    二〇一〇年九月に入ると、弟猫の体調はかなり回復してきてはいたものの、まだ万全ではなかった。ときどき大量の嘔吐をして、苦しそうな表情をしていた。弟猫が苦しげなのを心配したお姉ちゃん猫が、別の場所で作業していた私を呼びに来たこともあった。でも一進一退また一進という感じで、弟猫は元気になってきた。食欲がなく、食べられず、げっそり痩せて筋肉を失い、ヨタヨタとしか歩けなくなっていた弟猫に、少しずつ筋肉がついてきた。  そして同じ月のある日、買い物から帰った私は、玄関の上り框に並ぶ二匹の猫たちに迎えられた。弟猫が元気な時には、いつも見られた風景である。弟猫が調子を崩してからは、お姉ちゃん猫だけになっていたけれども、二匹での出迎えを、もう一度見ることができた。私は片手で弟猫を抱きしめ、片手でお姉ちゃん猫を撫で、嬉し泣きした。  弟猫も嬉しかったのだろう。さまざまな行動を考え、工夫し、実行しているようであった。ある日、帰宅して玄関ドアを開けてみると、玄関においてある猫用トイレに弟猫がしゃがんでいた。何日も続けて、毎回、帰宅すると猫用トイレに弟猫がしゃがんでいた。「誉めてもらうために、狙ってそこにいるのでは?」と考えた私は、外出時にカメラを仕掛けておき、動画を撮影してみた。案の定、弟猫は、私の車椅子の音が聴こえると玄関に出てきてトイレにしゃがみ、ドアが開くのを待ち受けているのであった。   さらに弟猫は、私が帰宅すると車椅子に飛び乗るようになった。最初は停止するのを待って飛び乗っていたが、そのうちに、揺れながら玄関に入ってくる車椅子に飛び乗るようになった。さらに、ドアから出てきて車椅子に飛び乗り、私に押されて玄関に入るようになった。この様子も動画撮影した。たかだか数十分、長くても数時間ぶりの再会を喜んで大騒ぎする弟猫と私に、お姉ちゃん猫がちょっと面白くなさそうな反応を示すこともあった。その様子も動画には記録された。当時の私たち一家の様子が記録された動画のいくつかは、You Tubeで現在も公開している。  このころから、九州に住む父親が、「どういう様子なのか気になった」などの名目で電話をかけてきては、「慎ましく生きていければ、それで良かろうもん」と言いはじめた。私が職業を手放さないこと、さらに向上を目指していることは、父親にとってはまったく許しがたいことであったのであろう。学業や職業をめぐる両親との確執は、大学進学を意識し始めた一五歳のころから延々と続いている。父親の発言は、その延長線上にあることではあった。その言葉に反応せずに別の話題を持ち出すと、次回も、その次回も、父親は「慎ましく生きていければ、それでよかろうもん」というのであった。なぜそう、執拗に繰り返さなくてはならないのか? その執拗さの背景は何なのか? 不気味だった。そもそも、「慎ましく生きる」とは、何を意味しているのか? 生活保護で生きていけということなのか? 障害基礎年金だけで生きていけということなのか? 父親がこのように繰り返すことは、二〇一二年、連載「生活保護のリアル」が話題になりはじめるまで繰り返された。今でも、「あれは具体的にはどういう意味だったのか」「なぜ、あんなに何回も何回も繰り返したのか」と父親を問い詰めたい。 ★猫たちとの毎日を支えた新しい車椅子  話は前後するが、二〇一〇年五月、私の生活には大きな変化が起こっていた。新しい車椅子がやってきたのだ。  二〇〇七年にアケボノスギ区から交付されていた電動車椅子は、既成品だった。どちらかといえば小柄な身長に対して手足の長い私の体型には、この電動車椅子はまったく合っていなかった。そのうちに、私は身体のあちこちに奇妙な痛みを感じるようになった。しばらくすると痛みは感じなくなり、ただ身体がだるく、脳に霞がかかったかのように思考や知的作業が困難になっていった。二〇一〇年三月、車椅子に原因があるのではないかと考えた私は、日本における車椅子シーティング(座位支持)の第一人者であるミツノさんに相談し、ミツノさんから補装具業者のコバヤシさんを紹介してもらった。ミツノさんたちが開発した座位支持装置をコバヤシさんに試用させてもらった私は、その効果に驚いた。その座位支持装置は、スウェーデンの「パンテーラ」という車椅子メーカーの製品に学んだものだそうだ。  私は「パンテーラの車椅子に乗りたい」と思った。問題は、パンテーラの車椅子は高価で、手動でも二八万円ほどするということだ。コバヤシさんは  「そもそも現在の車椅子が身体に合っていないのだから、東京都の心身障害者福祉センターで再判定を受けて、再交付を受けるという方法がある」 と教えてくれた。手動車椅子本体の公費支給を受ける場合、標準価格は約一一万円(当時)なので、差額は自腹を切るしかない。しかし、身体を痛めつけながら、体力気力を奪われながら、生活や社会的活動を行うことはできるか? 痛い出費だからといって、その出費をしないでいることはできるか? 結論ははっきりしていた。そもそも、公費支給の「標準」で手にすることのできる補装具が、身体を痛めつけつづける拷問器具のようなものでしかないことが問題なのではあるが。  地形にアップダウンの多い地域に住む私が、手動車椅子で生活することは不可能だが、電動化モジュールは二〇〇七年に交付された電動車椅子のものをそのまま使用することができる、とコバヤシさんはいう。コバヤシさんは、日本で最も数多く使用されている車椅子用電動モジュールをパンテーラの車椅子に搭載する技術を開発した本人であった。ちなみにコバヤシさん自身も、脊椎損傷で車椅子生活を送っている障害当事者である。パンテーラ社の創業者も、事故によって脊椎損傷となった元オートレーサーであった。「当事者だからこそ」の仕事というものが、世の中には数多くあるようだ……。  私はすぐに、居住しているアケボノスギ区の福祉事務所に連絡をとり、補装具の再判定を受けることにいた。東京都の心身障害者福祉センターに行くと、男性の担当者が  「その車椅子は? レディメイド(既成品)ですよね? 以前の判定はオーダーメイドではありませんでしたか?」 という。私が  「アケボノスギ区からは、レディメイドということで交付決定がされたので」 と答えると、担当者は  「ちょっと待ってください」 と立ち上がって、数分後に戻ってきた。そして  「今、アケボノスギ区の方と相談しました。レディメイドの交付決定を破棄して、本体のオーダーメイドを指示します」 と言った。こうして私は、自分の身体に合った、身体を痛めつけない車椅子を手にすることができることになった。断続的な車椅子生活が始まった二〇〇五年秋から数えて、五年目のことだった。  新しい車椅子は、スウェーデンからやってくるので時間がかかる。私の手元に届いたのは八月ごろであった。五月から八月までは、コバヤシさんが「早く、良い車椅子に乗ったほうがいいから」と、デモ用のパンテーラの車椅子を無料で貸し出してくれていた。  パンテーラの車椅子の特徴は、独自の骨盤サポートシステムだ。このシステムにより、車椅子に座っていても、骨盤の周辺は立位に近い状態が維持される。「パンテーラ以前」と「パンテーラ以後」で、私の状況は劇的に変わったのだが、「パンテーラ以後」の最初の半年ほど、二〇一〇年五月から一〇月ごろまでの半年間は、身体の一部がギシギシと痛み、しばらくすると楽になり、また別の箇所が痛くなり……の繰り返しだった。これは、身体に合っていなかった車椅子に歪められていた身体が正常な状態に戻るプロセスであったらしい。身体の一部が痛み、しばらくして楽になるたびに、薄皮が剥がれるように思考が楽に行えるようになり、活力が少しずつ湧いてきた。  立位を維持すること、歩行することも若干容易になった。当時も現在も、私はそれほど長い時間の立位維持はできないし、歩行も連続してはせいぜい二〇メートル程度が限度だ。でも、余裕をもって行えること、転倒のリスクにオドオドビクビクしながら室内を移動せずに済むかどうかは、日常のQOLを大きく左右する。  二〇一〇年一〇月、弟猫の病気を何とか乗り越えた私は、半年前の二〇一〇年三月・四月ごろとまったく異なる日常を送るようになっていた。その新しい日常は、パンテーラの車椅子に支えられていたのであった。  そのころ、国立北関東マンモス大学で、私はいったん復学し、研究室を異動することになった。副指導教員であったハヤ教授(仮名)が主指導教員に、計算機シミュレーションの指導ができる他の教員が副指導教員になるという形である。私は、心機一転して研究に励みたいとは思っていた。しかし、「サド教授といろいろあった人」「サド教授の研究室の主要メンバーに軽蔑されている人」という噂は、すでに近辺の狭い世界を駆けめぐっていたようである。私は「うさんくさい目で見られている」と感じて、豊かな自然に恵まれた美しいキャンパスに近寄りたいとも思わなくなっていた。それでも何とか週に一度は行くようにしていたのだが、病気を抱えた二匹の猫たちのことを考えると、もう北関東と東京都の二重生活は限界だった。私は二〇一〇年一二月、北関東マンモス大学の寮を引き払った。  その後、二〇一一年三月にやっと形式的な調査を始めた大学のアカデミック・ハラスメント対策委員会は、私が一二月という半端な時期に寮を引き払ったことを、「なぜ、そういう時期に?」と問題にした。そんなことが、サド教授の問題と何の関係があるというのだ。おそらく、北関東マンモス大学にとっての私は、追い出してしまえばそれで済む一院生にすぎない。そんな人間に対して傷つけない配慮を行う必要などない。後腐れなく追い出せれば、それでいい。でもサド教授は、研究室運営に若干の問題があろうとも、一定の研究成果を上げつづけている。そのサド教授を守ることは極めて重要だ……そういうことだったのだろう。  私は心底、北関東マンモス大学に嫌気がさした。ハヤ教授は私の良い理解者ではあると思えたのだが、もう、この大学とつながりを持っていたくない。それにハヤ教授のもとでも、おそらく遅れに遅れた研究を挽回して博士号取得に結びつけることは不可能だろう。もはや私の中では、いつ退学するかだけが問題だった。    しかしながら二〇一〇年の年末は、まあまあの健康に恵まれた二匹の猫たちとともに、平穏に過ぎていった。問題は、私に仕事と収入がないことであったが、これからまた作るしかないではないか。そのための努力をしようとするたびに、父親の「慎ましく生きていければ、それでよかろうもん」という声が頭の中で鳴り響いた。それが父親の願望にすぎないのなら、まだマシだ。もし父親が、私に「慎ましく生きていく」しかない人生を強要するために裏工作を始めたら、私はどうなるのだろう? 私は、「何をされるのだろうか」という不安と、「早く安全になるにはどうすればいいのだろうか」という焦燥でいっぱいだった。  しかし、不安と焦燥の中で寝付き、原家族で受けた虐待や浴びせられた罵詈雑言の夢を見てうなされても、毎朝は頬を軽く叩く肉球の手触りから始まった。弟猫が、肉球でハタハタと私の顔を軽く叩き、起こそうとしていたのだった。私が薄目を開けると、弟猫は目を覗きこんで「おあん」という。私が「ごはん?」と聞き返すと、弟猫は「うん」と答える。「お母さんまだ起きたくないもん」と私が目を閉じると、弟猫は再び肉球で私の顔を叩いて「おあん」……。そのうちに、なかなか起きない私に業を煮やしたお姉ちゃん猫が、床面からベッドで寝ている私の腹の上に飛び乗る。私はお姉ちゃん猫を撫でる。お姉ちゃん猫は私の手を舐めてくれる。そして弟猫は肉球で私の顔を触りつづけている。なんという幸せな朝なのだろう。  その幸せな朝が毎朝繰り返される中で、私たち一家は二〇一一年を迎えた。 ●第13回 車椅子での初めてのアメリカ、そして人生を変えた出会い   目 次  「日陰」で生きていくのも悪くない  数学研究の現場に滞在して    車椅子での初めての外国  〜AAAS年次大会への参加  ヴァージニア・スターンさんとの出会い  二〇一一年一月、一三歳のお姉ちゃん猫・一二歳の弟猫・四七歳になっていた私の一家三名は、平穏で幸せな毎日を繰り返していた。しかし当時の私は、ライターとしてはまったく仕事をしていなかった。二〇〇七年に国立北関東マンモス大学(仮名)での大学院生活が始まって以後、私はライターとしての活動を徐々に縮小せざるを得なかった。読者さんのために記事を書き、その報酬を得ることが私の生業であった。しかし私が記事を発表するたびに、大学院の指導教員であったサド教授(仮名)は不快を募らせた。研究がしたければライターとしての人生を放棄するしかなかった。しかし、サド教授の感情を損ねないようにしたからといって、私の将来が保証されるわけではない。結果として、二〇一一年の私は、研究はできないままライターとしても開店休業という状態へと追い込まれていた。「なんとしても、ライターとして再浮上しなければ」という思いでいっぱいだった。猫たちを守り通すためにも、それは必須だった。 ★「日陰」で生きていくのも悪くない  二〇一〇年秋ごろから、政府系機関に勤務する知り合いに音声起こしの仕事を少し回してもらったりしながら、私は再浮上へのきっかけを模索していた。障害者である私は、やや優先的に仕事を回してもらうことができた。内容は、科学の広い範囲に関係するインタビューの音声起こしであった。科学全般に広く浅い知識を持つ私にとっては、「うってつけ」と言うべき仕事であった。  私は音声起こしの仕事が嫌いではない。特に他のインタビュアーのインタビューの音声起こしは、得るものが非常に多い。そのインタビュアーのインタビューの方法は、当然ながら自分の方法とは異なる。事前の準備もインタビューそのものも、おそらく事後に何を行うかも。インタビュー音声には、内容以外にもさまざまな情報が含まれている。そのインタビュアーは、どのような問題意識をもって取材対象者の前にいるのか。事前に、どのような準備を行っていたのか。何に関して、どの程度の「予習」を行っていたのか。インタビューの方法論は、どのようなものなのか。その方法を用いると、何をどのように聴き取ることができるのか。逆に、どのような点が突っ込み不足になりやすいのか……。私にとっての「インタビューの音声起こし」は、音声起こしそのものの報酬とともに数多くの学びを得ることのできる貴重な機会なのだ。問題は、音声起こしそのものの報酬単価が高くはないということ・いつも十分な量の仕事が確保されているわけではないことであった。しかし、その時の政府系機関からは、音声一時間あたり一万四〇〇〇円程度の報酬を得ることができていた。  通常の「相場」は、音声一時間あたり一万円前後である。それでも、一日で音声三時間程度を起こすことができる私にとっては、決してワリのあわない仕事にはならない。しかも私には、一か月あたり約八万円の障害基礎年金がある。一か月あたり一〇〜一五時間の音声を起こすことができ、一〇〜一五万円程度の報酬を得られるのであれば、私たち一家の生活を維持していくことは困難な課題ではなくなる。  私は何となく  「このまま、出版業界の舞台裏の仕事だけで食べていくのも悪くないかもしれないなあ」 と考えはじめていた。女性の障害者が自分の名前を出して活動すると、攻撃を受けやすい。そもそも、健常者時代の私が仕事やキャリア構築を手放さずにいることを、家族を含めて私の周辺の男性たちは面白く思っていなかった。障害者になってからは、なおさらだ。しかも私は、まだ国立北関東マンモス大学に大学院生としての学籍を置いていた。なるべく風当たりを受けずにいるためにも、著者として自分の名前を出すような活動は控えたほうがよいだろうと思われた。二〇〇八年には、仕事への協力を申し出てきたトヨナカ氏(仮名)に、男性器を見せられかけたことまであった。身近な男たちに悪意をぶつけられ、激しい風当たりの中で仕事を続けるなんて、私には無理だ。「主婦の内職とどこが違うんだよ」と冷笑されてもいい。「障害者だからやっぱり在宅ワークよね」と勝手に納得されてもいい。収入があって、猫たちとの平穏な日常を維持できるのなら、それでいい……。  しかし一方で、「こんな状況が年単位で続くわけはないだろう」とも思っていた。年々深刻な様相となってくる、出版業界の構造不況。補助的な仕事の単価は、どんどん切り下げられてきていた。報酬が下がっても仕事が残っていればともかく、職種そのものが消滅していたりもする。政府系機関から音声起こしの仕事を受けて、それなりの報酬を得られる時期も、そんなに長くは続かないであろう。そうなったら、私には生活保護しかなくなるのか? 生活保護が悪いとは思わない。でも生活保護利用を余儀なくされる時、私には、生活保護を利用すること・生活保護基準の範囲で生活することに加え、父親が繰り返し私に言った「慎ましく生きていければ、それでよかろうもん」そのものの人間になることが求められるのだ。自分ではない誰かがイメージした「慎ましく生きる」を強制され、さらに「それでいい」と思うことまで強制されるくらいなら、その前に死にたい。自分の感情や思考が自分のものではないのであれば、自分の人生は、自分にとって意味あるものではない。 ★数学研究の現場に滞在して  二〇一〇年初夏、日本数学会が「ジャーナリスト・イン・レジデンス(JIR)」というプログラムを開始するという情報を得た。数学研究の現場にジャーナリストを滞在させ、自由に取材活動を行わせることが趣旨である。そのジャーナリストが提灯記事を書くか、批判記事を書くか、あるいはバランスのとれた報道記事を書くかは本人の自由だ。日本数学会には、数学や数学研究に対する一定の理解を持つジャーナリストが不足していることに対する危機感もあったようである。  私は、「このプログラムに参加できれば」と思った。長年、私を何かと励ましつづけてくださっている数学者のナガシマ先生に相談したところ「自信を持って推薦します」ということであった。そこで私は、ナガシマ先生・もっとも付き合いの長い編集者であるトリグチさんの推薦を得て、このプログラムに応募した。  間もなく日本数学会から返事があり、東京大学大学院数理科学研究科に滞在できることになった。二〇一〇年一月後半、私は二週間にわたって東京大学駒場キャンパスに通った。教職員の方々にインタビューし、数学書でいっぱいの研究科図書室の中を探検し、授業を覗き、交流会に参加した。  受け入れを担当したツボイ教授の案内で最初に図書室に入った時、私は大きなカルチャーショックを受けた。長身のツボイ教授は、穏やかな表情と話しぶりで、こともなげに「このあたりに置かれている雑誌は一九世紀のものですね」と説明する。一九世紀といえば、私が専門としてきた半導体物理はまだ誕生もしていなかった時期である。自分が過去に読んだ最古の文献は、一九九七年に発行された論文で引用されていた一九五〇年代の書籍だった。私は率直に「時間の感覚が全然違うのでクラクラしてます」とツボイ教授に話した。ツボイ教授はにっこり笑って「半導体物理は新しい学問ですからね」と答え、私を書庫の奥に案内した。そこに置かれていたのは、一六八七年に発表されたニュートン『プリンキピア』……。古典物理学の始まりとなった書籍である。  私は、大学院の授業にも出席してみた。計算数学の授業を、私はほぼ理解することができた。たぶん私は、サド教授が私に繰り返し主張したほどには無能な人間ではないのではないだろう。サド教授が私に言った「何もわかっていない」が事実だったら、東大のこの授業を理解できているわけはないだろう。しかし、サド教授の主張を自分の中で否定するのは、私にとって辛いことでもあった。それは、国立北関東マンモス大学やサド教授を選んでしまった自分、そこに自分の将来の希望があると信じて三年にもわたる努力の空回りを続けた自分を否定することでもあったからだ。私は時に激しく混乱し、自責し、トイレで黙って涙を流したりもしつつ、取材を続けた。取材しているうちに、「ああ、私は一生かけても、こちらの世界の人間にはきっとなれないんだ」という感情が湧き上がってきて、何とも表現しがたい悲しみを覚えることもあった。  それでも、数学の世界に生きる研究者たち、その研究者たちを支える大学職員たち、「プレ研究者」というべき学生・院生たちと接しているうちに、私の中で固くわだかまった何かが溶けていく感じがした。いつのまにか、科学と技術のうちごく狭く小さな範囲を、世界の全部だと思い込んでしまっていた自分。その狭く小さな範囲で「ここで生きて行けなければ、どこでも生きていけない」と思い込んでいた自分。何が、あるいは誰が、その思い込みを作ってしまったのだろうか? それはわからない。でも、世界は広く多様だ。どこかには、私が職業人として生きていける場があるに違いない。そこにたどり着きたい。たどり着ければ、父親がいかに執拗に「慎ましく生きていければ、それで良かろうもん」と私に説いたとしても、私は父親の望み通りにならずに済むのだ。 ★車椅子での初めての外国  〜AAAS年次大会への参加  二〇一一年二月、日本数学会JIRによる東京大学への滞在が終了した翌週、私は米国へと旅立った。初めての米国、初めての車椅子での外国であった。二匹の猫たちの世話は、ペットシッターさんにお願いした。その時期、猫たちの健康状態は、まあまあの安定を見ていた。  この米国旅行は、ワシントンDCで開催されるAAAS(米国科学振興協会)の年次大会に参加するためであった。AAASは日本では科学雑誌「サイエンス(Science)」の発行元として認識されていることが多いけれども、年間約一〇〇億円の予算規模・協力関係にある学協会を含めて一〇〇〇万人とも言われる会員数を誇る世界最大のNPOである。活動の内容は科学にとどまらず、社会へ多様な影響を及ぼしている。また、米国の政治に対しても大きな影響力を有している。  年次大会への参加を決意したきっかけは、まことに下らないことであった。  その一年前の二〇一〇年二月、私はサド研究室で、目に悔し涙を溜めてパソコンの画面を眺めていた。画面の中では、旧知のナンバさんがツイッターでAAAS年会の様子をレポートしていた。当時、政府の科学振興機関に勤務していたナンバさんは、業務の一環としてAAAS年会に参加し、多忙な業務の合間にシンポジウムや講演の様子をレポートしてくれていたのであった。  私はその日も、院生のヨシハラ(仮名)に辛く当たられていた。研究室のボスであったサド教授は、米国への留学経験があり、博士号も米国で取得していた。ふだんから「アメリカでは」が口癖のサド教授に非常に大切にされており、周辺からはサド教授の後継者ともみなされていたヨシハラは、二〇〇九年暮れ、サド教授に連れられて米国での学会に参加したばかりであった。  二〇一〇年一月・二月ごろ、私が研究室にいると、ヨシハラはサド教授が学会でどのようであったかを話題にした。といっても、私に話しかけるわけではない。他の院生に自慢気に話しては、私の方をチラチラ見るのである。ヨシハラは「このオバサンが知らないことを自分はたくさん知っているのだ」と誇りたいようであった。他の院生たちは、ヨシハラに同調し、私の方をチラチラと見た。その目つきには、軽蔑や憐憫が含まれているように見えた。  その日の私は、耳に突き刺さるようなヨシハラの自慢気な声、身体を刺し貫くかのようなサド研究室の院生たちの視線と嘲笑を感じつつ、自分より何歳か若いナンバさんが米国で大活躍している様子をパソコンの画面の中に見ていたのだった。この上なく惨めな気分だった。私は大学院生という立場で研究室におり、自分の息子であってもおかしくない年齢の大学院生にいじめられている。ナンバさんには立派な学歴と職業キャリアがあり、夫君と二人のお子さんがいる。私には、少なくともナンバさんに対して誇れるような学歴や職業キャリアはない上に、事実婚に二度失敗した。猫は二匹いるけれども……。その場で私は、  「来年のAAAS年会には行こう、サド先生が『アメリカでは』という『アメリカ』を自分の目で見てみよう」 と決意した。サド教授自身は、いわゆる「出羽の守」に他ならなかった。しかしサド教授の語る米国での研究生活の思い出話からは、希望や機会を幅広く提供する国でもあった米国の姿が仄かに見える気がしていた。問題は資金である。私は航空会社のマイレージをインターネットでチェックしてみた。クレジットカード利用で溜めた航空会社のマイレージは、米国と日本を一往復できる程度に溜まっていた。このマイレージを利用すれば、一〇万円あれば米国に行ってくることが可能だろう。  車椅子での航空機利用、車椅子での米国旅行は、拍子抜けするほど容易で快適だった。たった一つ、好意を装って接近してきた在米日本人女性・カッパ(仮名・当時四〇代後半)の同行さえなければ。  カッパは、私がサド研究室でのイジメをツイッターで愚痴っていたときに、親切心を見せつつ接近してきた。二〇〇九年四月ごろのことであった。幼少時のカッパは、何歳か年上の肢体不自由の少女と仲良くしていたとのことで、私とのチャットでの会話では障害者への理解とシンパシーを表明し続けていた。二〇一〇年秋、私が「学会参加のため、二〇一一年二月にワシントンDCに行く予定だ」と言うと、カッパは「自分も一緒に行きたい」、という。その時には、断る理由は特に見当たらなかった。現地にくわしい日本人が同行していれば心強いのは確かなので、カッパの申し出を受け入れることにした。     二〇一〇年一一月ごろ、カッパは「日本で自伝を出版したいから売り込みを手伝ってほしい」と言い始めた。それは不思議な申し出であった。カッパの波瀾万丈の人生を企画書にまとめるのも、企画が通りやすい出版社を探すのも、営業するのも、全部私の仕事なのである。カッパは「そうしてもらって当たり前」という態度でいた。「早く本を出したい」とチャットで毎日しつこく繰り返すカッパに、「とにかく一度会って話をしよう」と私は言い続けた。会ったこともない人の半生記について、企画書を書いたり売り込んだりすることは、私はできない。どういう人だかよく知らないのに出版社に企画を持ち込むのは、その出版社に対して無責任ではないか。  カッパは、ロサンゼルス郊外に在住していた。そこで私は、マイレージ航空券を東京‐ロサンゼルス往復に当てることにし、米国内でのフライトを別途手配した。その手配も、二人分の費用を前もって捻出することも、私の仕事なのであった。カッパは「今、クレジットカードが切り替え手続き中で手元にないので」という。カード社会の米国でクレジットカードが使えない? 複数のクレジットカードを所有して、そのようなリスクに備えておくものではないのか?      ロサンゼルス空港に到着すると、カッパがワンボックスカーで迎えに来てくれた。そのワンボックスカーはレンタカーであるという。現在、自分の車は所有していないということだ。車社会のロサンゼルスで、しかも郊外在住で、自分の車がない?   なぜ、カッパは有効なクレジットカードを持たず、車も手放さざるを得なくなったのだろうか? それでもカッパは、「社会起業家」を自称していた。日本の文化を米国に紹介するイベントを開催するのが、主な仕事だということだった。しかしカッパの語る生業は、日本の菓子を輸入業者から仕入れて小売店などに転売することであったり、清掃であったり、配送であったりした。  本人が語るところによれば、カッパは大変な人脈を持っていた。たとえば、ICT業界では誰もが知っている先端的なベンチャー企業の社長は、ときどき個人的に悩み事を相談してくる親しい友人なのであった。私が後でその社長本人に聞いてみたところ、「米国出張時に車の運転を頼んだことがある」というだけの関係だった。後に私は、カッパの語った人脈のほとんどに対して、事実関係を直接ただしてみた。全部がウソであったり、故人であるため確認のしようもなかったりした。  ともかく、カッパと私はワシントンDCに到着し、AAAS年次大会に参加した。カッパの分もプレスバッジを取得し、二人ともプレスルームを利用できるように手配したのは私であった。しかしカッパは、雰囲気が肌に合わなかったのか、あるいは自分の入り込む余地がまったくないと感じたのか、私とはほとんど別行動であった。同行すれば、私はカッパの分も食事代を支払うことになる。正直なところ「費用はできるだけ節約したい」と考えていた私が「今日のランチはパンとコーヒーでいいや」と思っているのに、カッパは高価なレストランに入りたがるのだ。そして支払いのときには、チップを多めに支払うように私に求める。支払いを済ませて店を出ようとすると、背後からカッパの声がする。レジの店員に「私があの日本人にチップという常識を教えてやった」と自慢しているのだ……。レンタカー費用もガソリン代も宿の宿泊費も、ごくわずかな例外を除いて私が支払っていた。私に支払わせるときのカッパの言い訳は、さまざまだった。「ここで使えるカードがない」「今、現金がない」「地元の銀行にお金はあるんだけど、ここで引き出すと大変な手数料がかかる」……。  旅の終わりに、ロサンゼルス国際空港でカッパと別れて一人になったときの解放感は、形容のしようがない。私はつくづく消耗させられていたのだ。カッパにたかられた費用は日本円で五万円ほどに達していたが、この時は「もう、そのカネでカッパとの後腐れがなくなるんだったら、それでいい」という気持ちだった。 ★ヴァージニア・スターンさんとの出会い  しかし私は、初めてのAAAS年次大会を、心から楽しむことができた。初めての海外での国際学会、しかも特定の分野に偏らない、分野横断的な学際的学術大会。どの講演、どのシンポジウムも、「こんな世界もあるのか」という驚きと知る喜びをもたらしてくれた。毎晩のように催されるパーティーでは、さまざまな人々と会話を楽しんだ。ある大学の職員は、私が博士課程の大学院生であると知り、「学位取得後、ポストドクターとしてウチの大学に来ない?」と誘ってくれた。世界は機会でいっぱいだ。狭い日本の、一大学の、一研究室での出来事に潰されかけていた自分が、まったくの愚か者に見えてきた。  AAAS年次大会に参加するにあたって、私にはライターとして知りたいこと、取材したいことがあった。AAASにとって、障害者支援はどのような位置づけにあるのかということだ。当時の雑誌「サイエンス」には、いつも「エントリー・ポイント!(Entry Point!)」というプログラムの広告が、障害のある若い科学者の写真とともに掲載されていた。目次の横など広告の「一等席」というべき場所に、たとえば車椅子に乗った研究者が文献を求めて書架の前にいる写真が掲載されているのである。日本の自然科学系の学会誌・学術誌の中には「決して」といってよいほど見られることのない誌面構成だ。  最初に抱いたのは、「このエントリー・ポイント!って、何?」という疑問だ。インターネットで調べると、「エントリー・ポイント!」が障害のある理科系学生のためのインターンシッププログラムであることはわかった。それは「なぜAAASが、そういう活動をするのだろうか?」「なぜ、雑誌サイエンスの一等席に、障害者の写真が置かれうるのか?」という疑問へとつながった。たとえば、日本学術振興会や科学技術振興機構が音頭を取って、障害学生のための活動を積極的に展開することは考えられるだろうか? 組織として注力している活動として、積極的に広報することはありうるだろうか? 日本の公的な科学振興機関が同様の活動を始めようとすると、「健常な学生に不公平感が」「大学や企業の負担が」といった意見が必ず出てくるだろう。もし実現したとしても、反発を避けるため、細々と目立たないように実行するのが関の山ではないのか?  AAAS年次大会への参加にあたって、事前に「自分は肢体不自由で車椅子を利用している」ということを知らせておいたところ、障害者支援の担当者から「どういうお手伝いが必要ですか?」という返事があった。会場はバリアフリーだということなので、特に配慮をお願いする必要はなさそうだったが、私は「『エントリー・ポイント!』について詳しく知りたい」と申し出た。すると「障害者支援ミーティングに参加してみますか?」という返事があった。AAAS年会では数多くのミーティングが開催されており、そのほとんどは誰もが参加できる。ミーティングで表明された意見や議論の内容は、翌年以後のAAASの運動方針に反映される。誰でも、一会員としての権利を行使できる仕組みだ。  内心、「私なんかが参加してもいいのかなあ」と悩みながら、私は障害者支援ミーティングに参加した。その時の話題は、  「『エントリー・ポイント!』のようなプロジェクトが奏功し、障害のある学生の就職について大きな問題はなくなってきた。しかし就職後、出世したり華々しい活躍をしたりするには至っていない。勤続状況も、健常者にはやや劣るようだ。障害者のヒーロー・ヒロインを数多く作らないと、今後の展開は難しいのではないか」 といったことであった。私はひっくり返りそうなくらい驚いた。日本で障害学生・障害のある会社員に「ヒーローになる」「ヒロインになる」が求められることはあるだろうか?乙武洋匡氏や浅川智恵子氏のようなスーパースターは存在する。けれども、スーパースターになれない大多数の障害者は、健常者が大多数の組織の中で、健常者から見て劣位・傍流・補助的といった位置づけにあり続けている。そうでなければ、激しい風当たりを受けて潰される。特例子会社や障害者だけを集めた部署でならば、差別を受けずに仕事に集中することができる。それは、健常者から隔離されて「見えない」存在にあるからこそ、だ。なんという違いなのだろうか? 米国と日本の間には、単に時間的に「遅れている」というだけではなく、決定的な内容の違いがありそうだ……。  そして、このミーティングの場で、私は ヴァージニア・スターンさんと夫君に出会った。夫妻は、大学院修士課程を修了したあとAAASに就職し、リタイアまでの四〇年近くにわたり、AAASの障害者支援活動に尽力した。現在は、居住地で高齢者たちの地域生活を支援している。そしてスターンさんは「エントリー・ポイント!」プログラムの創始者であり、その後定年まで、一〇年以上にわたってプログラムのディレクターを務めた人物なのであった。    三〇分ほどのインタビューに応じてくれたスターンさんは、私の不自由な英語に配慮しつつ、AAASがどのように障害者支援に取り組んできたかを語ってくれた。  一九七〇年代の米国では、障害のある学生が大学で充分な配慮を受けられずに苦戦していた。大学院修士課程に進学することができたとしても、「宿泊できるホテルがない」「学会会場がバリアフリーではない」といった理由で学会活動への参加を断念せざるを得なかった。また、障害児を含むすべての子どもたちへの教育機会保障も始まったばかりであった。  一九七〇年代後半、当時のAAASのトップが「この状況を変えてやる」と決意した。スターンさんを含むスタッフたちは、検討を重ね、「ホテルを改装する」という取り組みを始めた。  AAASの年次大会は、毎年二月、米国またはカナダの大都市で開催される。スターンさんたちの戦略は、毎年の年次大会に、障害のある科学者や学生・院生が参加できるようにすることだった。このような大規模学会の会場は、大規模ホテルであることが多い。スターンさんたちはホテルと交渉し、シンポジウムが行われる宴会場をバリアフリーにし、車椅子使用者が使用できる客室を作り、経路もバリアフリーにした。「費用はこちらで持ちますから」と持ちかけ、渋るホテルに改装を承諾させても油断はできない。年次大会開会の一週間前、下見に行ってみるとまだ改装が行われていなかったこともあった。急遽、地域の工事業者を手配して改装を始めるしかなかった。スターンさんたちAAASのスタッフが工事業者に混じって、ハンマーで古いバスタブを打ち壊すなどの作業を行うこともあったそうだ。スターンさんは  「障害者に関する法律の整備は少しずつ進んでいたのですが、ホテルに関する法整備はまだでした。だけど私達は、この活動で世の中を変えられると考えていました。五〇〇〇人のお客さんを呼ぶことができて、ホテルはビジネスを拡大できるようになるわけですから」 と言う。  スターンさんたちが数年にわたって「障害のある人が利用できるホテルを作る」という作業を繰り返しているうちに、ホテル業界が変化してきた。AAAS年次大会のために車椅子で利用できるように改装されたホテルや、そのようなホテルのある都市は、その後も「バリアフリー」をアピールして学会などの大規模イベントを招致することができる。数千人、場合によっては一万人以上の参加者で賑わう学会を招致することは、地域経済にとっては重要なビジネスチャンスだ。そのことに気づいたホテル業界は、一九八〇年代に入ると、自発的にバリアフリー化を行うようになったのである。  さまざまな個人や団体の多様な働きかけが功を奏し、一九九〇年、米国障害者法(Americans with Disabirities Act(ADA))が制定された。ADAは当初から、日本の障がい者差別解消法(二〇一三年)・ハートビル法(二〇〇〇年)・交通バリアフリー法(二〇〇〇年)を包含した内容と、実行力・強制力を有する形で制定された。施行後、米国では障害者の社会参加がさらに促進された。もちろん米国でも、法律を一つ作ったからといって障害者差別が消滅するわけではない。直接差別が禁止されれば間接差別が増加する。間接差別も禁止されれば、より陰湿で発見も対処も困難な間接差別が増加する。しかしADAにはその後も何回かの改正が加えられ、より実効性のある法律へと変化しつつ現在に至っている。  私は、スターンさんの話に驚いた。堅固で変えがたいものに見える社会は、変えることができるのだ。ただ驚く私に、スターンさんは  「経験が、いちばん大切です。変化を経験すれば、『変わらなくては』という思いから、人は変わっていきます」 と言う。個人の変化の集大成が、社会を変化させていく。米国で「社会が変化する」とは、そういうことなのだ……。  数日後、AAAS年次大会は終了した。私は、出国前と特に変化があるわけではない日本へと戻った。どうしようもない障害者差別が、どうしようもなく正当化されている日本。けれども私は、  「今のこの日本の状況を『変えられないもの』と考えて絶望の中で生き続け、嘆息と恨み節の中で生涯を終える将来以外にも、私には選ぶことのできる選択肢があるのではないか?」 と考えはじめていた。  スターンさんとの出会いは、私を深く深く変えたと思う。  二匹の猫たちとの再会を喜び、猫の食事や服薬を中心とした生活に戻ってみると、米国でのさまざまな経験は夢の中の出来事であるかのようにも思えた。これから自分はどうなっていくのか? またいつか、AAAS年次大会に参加することはできるのか? 考えると、どうしても悲観的になってしまう。猫たちと暮らす日常の歓びと、このまま埋もれてしまうしかなさそうな自分の人生を思い浮かべての哀しみの中で、淡々とした日常が静かに繰り返されていった。  そして二〇一一年二月が過ぎ、二〇一一年三月がやってきた。二〇一一年三月三日は例年通り、お姉ちゃん猫と私のために、刺身でささやかな「ひな祭り」の祝膳を整えた。そして、お姉ちゃん猫・弟猫・私の三人で、刺身に舌鼓を打った。  私が今後、ライターとして再浮上できるのかどうかはわからない。でも私たち一家の日常は、そんなふうに穏やかに繰り返されていくはずであった。 ●第14回 最終回 東日本大震災、そしてライターとしての再浮上 〜「アンパンマンのマーチ」とともに   目 次 予期せぬ大地震 東日本大震災と私たち一家 弟猫、『アンパンマンのマーチ』に出会う 北海道・浦河町へ〜ライターとしての復活 連載「生活保護のリアル」開始  二〇一一年二月、私は米国に渡り、AAAS(米国科学振興協会)の年次大会に参加した。そして、障害のある科学者・理科系学生の活躍の場を広げることに貢献してきた元AAAS職員のヴァージニア・スターンさんにインタビューし、その戦略性と内容と結果に感銘を受けて帰国した。「記事化したい」と考えてはいたけれども、それほど急ぐべきことであるとは思っていなかった。 ★予期せぬ大地震  二〇一一年三月四日、私は大学院生として籍を置いていた国立北関東マンモス大学(仮名)に出向いた。大学のアカデミック・ハラスメント対策委員会に呼び出されていたからである。そこで私は、「さっさと、この面倒を片付けてしまいたい」という態度をあからさまにした職員たちに、たいへん不愉快な尋問を受け、「個人の勝手」であるべきことがらを詮索された。  終わった後、私はカレーショップに向かった。北関東マンモス大学の構内には、なかなか美味なカレーを食べることのできるカレーショップがある。久々のエビカレーに舌鼓を打っていると背後から声をかけられた。サド研究室(仮名)の院生の一人で、私に比較的好意的だった男子、タカヤマ(仮名)だった。  タカヤマは、私がサド研究室で問題にされているという。かつて私はサド研究室で、メールアカウントの割り当てを受けていたが、すでに抹消されていた。その抹消されたメールアカウントを使ったログインの試みがいまだに繰り返されており、ときどき研究室のサーバが動作停止してしまうのだそうだ。これは、サーバの設定としては妥当といえば妥当である。いわれのないアクセスを何回かにわたって受けたとき、サーバを停止させてしまうことが可能であれば、それは最大の安全策だ。業務系サーバであれば許されないことだが、大学の研究室レベルであれば、停止させても大きな問題は起こらないことが多い。  私はタカヤマに、「たぶん、パソコンに仕込んでいるメールクライアントのどれかの仕業だろうと思う。思い当たるものを止めておくよ」と答えた。それにしても不可解な話ではある。「以前メンバーだった人物のアカウントによるアクセスが続いている」ということ自体は、企業や学校のメールサーバでは起こりうることである。しかし、そのアカウントではログインできないように設定されており、なおかつ「メールを読む」を目的としたアクセスしかなされていないのであれば、セキュリティ上の脅威にはならない。このようなことでサーバ全体を停止させずにすむよう、サーバプログラムではたいてい「ホワイトリスト」を利用する。「ホワイトリスト」とは、攻撃とみなす必要のないアクセスの一覧表のことだ。「ホワイトリスト」に記載されているアクセスが行われた場合には、「ログインは許さないがサーバは停止させない」という処理を行うことができる。コンピュータおたくの多いサド研究室に、その程度の、サーバ管理の初歩の初歩レベルのことを知っているメンバーが一人もいないわけはない。サーバの設定を見直すのではなく私を悪者にし、しかもそれを陰口レベルにとどめ、私本人には言わないとは。まことにサド研究室らしい対応だ。  私は帰宅するとすぐに、罵声とともにパソコンの設定を見なおし、サド研究室のサーバへのアクセスを行っている可能性があるプログラムを全部削除した。  翌週の同じ曜日は、三月一一日であった。その日も私は、北関東マンモス大学に行く予定だった。しかし朝から、お姉ちゃん猫と弟猫が足にまとわりついて「お母さん、行かないで」というような意思表示をする。三月四日のことで、大学の職員たちにも、サド研究室のメンバーにも立腹していた私は、「私も行きたくないなあ」と思った。そして大学に行く予定を取りやめ、人に会う予定を全部キャンセルした。  「せっかく東京にいるのだから、税務署に行って、確定申告の手続きの確認でもしてこようかなあ」 と考えて外出向きの服装に着替え、  「でも、外は寒そうだから出たくないなあ」 と寝室で本を開いて読みながら猫たちと遊ぶなどしていた午後二時四五分、地震が発生した。  揺れが大きくなると、お姉ちゃん猫はさっと寝室を飛び出していった。おそらく揺れがおさまるまで、人間用のトイレにでもいたのだろう。そこは柱の密度が高く、住まいの中で最も安全と思われる場所だ。弟猫は私の左側で、うずくまって身体を固くしていた。私は弟猫の背中に手をおき、上ずった声で「落ち着いて、落ち着いて」と繰り返していた。目の前で、猫用の食器に入っていた水が激しく揺れてこぼれた。仕事部屋からは、三本あった本棚のうち固定されていなかった二本の倒れる音がした。築六〇年の木造平屋である住まいは、倒壊するかと思うほど激しく揺れた。窓の外では、近所のお宅の瓦屋根の上で瓦が飛ぶのが見えた。天井がひび割れ、砂埃が落ちてきた。  やっと揺れがおさまったので、住まいを点検した。仕事部屋に行ってみると、固定してあった本棚から、中井久夫著作集が全巻を収めたダンボール箱ごと飛び出し、いつも座っている椅子の座面に落ちていた。家の中は、落ちたり倒れたりしたものでグチャグチャになっていた。とうてい、一人で片付けを行うことはできそうにもなかった。  ついで外に出てみた。住んでいられないほどの損害を受けた箇所、修理がすぐに必要な箇所は見当たらなかったが、大谷石の門柱が一本折れて転がっていた。ご近所への被害につながらなかったのは不幸中の幸いだった。外に出ていた近所の主婦たちと無事を喜び合い、ガスの供給が遮断されていたのを元に戻して住まいの中に戻った。    とりあえず、台所だけは作業できる状況にしておこうと思った。台所の床は、落ちてきたスパイスの小瓶や乾物の袋で足の踏み場もなくなっていたが、落ちて割れた食器は一つもなかった。床に落ちていたのが軽いものばかりだったので、それほど苦労せずに片付けることができた。一〇分もかからなかった。並行して、ライフラインを確認した。水道は? それから水は? 電気は? さしあたり、大きな問題はなさそうだった。  それから、パソコンの前に座った。ツイッターに「動画配信サイトでTVニュースを見ることができる」という情報が流れていた。TVを持っていない私は、そのサイトにアクセスしてみた。画面には、東北・沿岸部の津波の状況が映し出された。石巻も、気仙沼も、訪れたことのある場所だ。そしてその夜、福島第一原発の事故が報道されはじめた。 ★東日本大震災と私たち一家  その後数日間の私は、科学コミュニケーションの世界の仲間たちとともに、福島第一原発に関連する情報を整理して供給する活動に携わっていた。ツイッターを中心に流通していた情報の中には、事実である可能性が非常に低いものも含まれていたからだ。当初、私たちは情報をまとめて整理したサイトを構築しようとした。時間があってWebサイト構築の作業に最も慣れていた私が、実作業を担当していた。しかし翌々日の三月一三日には、サイエンス・メディア・センターが情報の集積と公開を開始した。二〇一〇年四月からそこに勤務していたナンバさん(前回参照)の功績である。私たちは独自サイトを構築するという方針を転換し、アクセスしてくれた人を速やかにサイエンス・メディア・センターのサイトへと誘導する仕掛けを作ることにした。  もちろん私には「自分と猫たちの生活を守る」という責務があった。「東京都の水道水に放射性物質が混入している」という情報に接すると、「これは猫たちに与えていいのか」と悩むことになった。被災地や被災した方々に対して何らかの役に立つことができればという気持ちはあったけれども、そのためにも、まずは自分と家族を守ることが必須だ。そう自分に言い聞かせてはいた。そのうちに、石巻市でミルクが足りずに赤ちゃんが栄養失調死しているという情報が流れてきた。私は「ごめんなさい、ごめんなさい」とつぶやきつつ半泣きになりながら、猫たちのキャットフードを食器に出した。猫たちは怪訝な表情で私の顔を見るのだが、目の前に「ごはん」が出てくると、食べることに集中した。余震の中での食事に、猫達はすぐに慣れてしまった。警戒しながらも、おいしそうに食事してくれていた。  九州に住む叔母の一人から、電話がかかってきた。私に好意的だった叔母は「しばらく、猫ちゃんたちを連れて帰ってきたら?」という。でも、高齢で病気を抱えており、過去に飛行機に乗ったことが一度もない猫たちを連れて九州に行くのは不可能だ。私は東京にとどまるしかなかった。  住まいの片付けもしなくてはならない。震災だからといって、在住するアケボノスギ区(仮名)がヘルパー派遣の時間数を増やしてくれるわけではないのだ。数日後、友人たちが来て片付けを手伝ってくれた。  その後、父親から「何か費用が必要だったら援助しようかと思っているんだけど」という電話がかかってきた。私は被害の一覧表と、復旧や将来の安全確保に必要な費用の一覧表を作り、父親に送った。そこには金額と実施時期を明記しておいた。一〇年、二〇年先の予定も書き込まれていたが、向こう半年や一年の間に必要な費用に限れば最大でも三〇万円程度だった。数日後、父親から電話があり、その一覧表に関しては「見た。書いてあることは理解した」とだけ返事があった。父親は続けて「自己責任で東京に住んでいて、自己責任で夫も子どももいないお気楽な立場」と私を非難しはじめた。  ちなみに東日本大震災では、当時相馬市に住んでいた父方の従妹の一人が被災し、避難を余儀なくされた。九州で育ったその従妹は、ご縁があって相馬に嫁いだのだった。私は従妹の被災が自己責任だとは思っていないけれども、父親が私にだけ「自己責任」と言ったことを、いまだに許せない。真意が「経済的援助を行いたくない」であるとしても。  ロサンゼルスに在住する日本人・カッパ(仮名、前回参照)は、日本人被災者のための慈善活動を始めた。カッパは、仕事らしい仕事のない障害者である私に善意を装って近づき、二〇一一年二月の米国滞在中、さまざまな名目で五万円ほどをタカった人物である。カッパの偽善ぶりに心底呆れた私は、カッパを通じて知り合ったロサンゼルス在住のピアノ教師・マリコさんに相談した。マリコさんも、似たような被害に遭っていた。ロサンゼルスの日本人コミュニティには、カッパに数万円程度の金額を用立てたものの返してもらえない人が何人もいるそうだ。マリコさんたちは、ロサンゼルスで訴訟を起こし、カッパから謝罪と支払いを引き出した。私もカッパと交渉した。脅しすかしに消耗させられた末、五月に入ってから、立て替えた五万円のうち三万円は返してもらえた。返さなかった分は、カッパによれば「友達ならば、当然そのくらいは出すべきだから」だそうであった。  そうこうするうちに、身近に「微妙な被災者」というべき友人たちが増えてきた。東日本大震災そのもので被災といえるほどの被災をしたわけではないが、東日本大震災の影響で生活の基盤を揺るがされた人々である。  まず、三〇代前半の友人・ハジメから電話がかかってきた。「来月のアパートの家賃が払えない」という。空手家であるハジメは現在も、東京都内の公共施設や学校の体育館などで空手教室を開催して生計を立てている。しかし東日本大震災の直後、施設が利用できなくなったり「自粛」でイベント開催ができなくなったりすることが相次いだ。目先の現金収入のアテがなくなってしまったハジメに私は「ウチに居候したら?」と言った。ハジメにも手伝ってもらって、私は仕事部屋に大人が一人寝泊まりできる程度のスペースを作った。  ハジメは二〇一一年の秋ごろまで私の住まいに居候し、弟猫はハジメが大好きになった。私は「もし、この子が人間の一三歳男子だったら」と夢想した。そろそろ、女親の私には言えないことや言いたくないことが次々に現れているだろう。声変わりも始まっているかもしれない。でも、きっと彼は、思春期という危うい時期を、母である私のたくさんの男性の友人たちに支えてもらいながら乗り越えていくことができるだろう。今、弟猫がハジメと一緒にいることを楽しんでいるように……。私が泊まりがけで取材に出かけたりするときには、ハジメが細やかに猫たちの面倒を見てくれた。ハジメはその後、経済状況を立て直し、ふたたびアパートを借りて生活しはじめた。  もともと見た目が「頼られキャラ」である私は、障害者の友人たちから相談電話を受けることが多かった。そのほとんどは精神障害者であり、生活保護を利用していた。相談の電話の頻度は、東日本大震災後、それまでの数倍になった。内容は「風邪で福祉事務所に医療券をもらいにいったら露骨に嫌がられた」「補装具の修理に難色を示された」といったものである。もしかすると、本人たちが不安になっていたから、いつもの反応が「露骨に嫌がる」や「難色」と見えたのかもしれない。もしかすると、東京都内のあちこちで、生活保護費の引き締めが始まっていたのかもしれない。友人たちの住んでいる地域は、福島県などから多数の転入者があった自治体であったりもしたからだ。  余震の続く中、私は猫たちに避難行動を教えた。緊急地震速報の警告音が鳴り響いたら、私は「寝るお部屋、寝るお部屋」と猫たちを促して、全員で寝室に行く。そして地震がおさまるまで、私は歌を歌いつづけるのだ。当初、しぶしぶ避難していた猫たちは、ある日、私の留守中に震度四の地震を経験してから、自発的に避難するようになった。私が緊急地震速報をチェックして「なあに、震度二なら逃げることないな」とノンビリ構えていると、猫たちは「お母さん、逃げないの?」と避難を促しに来るのであった。  そのうちに、玄関の天井が雨漏りしていることに気づいた。おそらく東日本大震災によるダメージであろう。  二〇一一年四月、定期検査のために弟猫を動物病院へ連れて行くと、院長の獣医師・ハヤシ先生が沈痛という感じの面持ちで私に話しかけてきた。弟猫の使用している抗甲状腺薬が、東日本大震災の影響で入手困難になっているという。その薬剤は動物用医薬品ではなく、通常の人間用の医薬品だ。人間が使用する分の確保が困難になってきており、ましてや動物向け用途では入手が近々不可能になる可能性が高い、ということだ。歯切れ悪く「もちろん、私たちも最大限に努力はしますが……」と言うハヤシ先生に、私は「こちらでも、伝手をあたってみます」と答えた。その薬剤が使えなくなったら、弟猫は時間の問題で死に至ってしまうからだ。  最悪の場合、同じ成分の薬を買い付けに海外へ行くことも念頭に置きながら、私は友人の薬剤師たちに相談してみた。病院内で使用される薬剤にも詳しい薬剤師のヨコヤマさんは、「その薬、錠剤以外に注射薬があるはずですよ。注射薬だったら、まだ余裕ある可能性が高いです」と教えてくれた。科学コミュニケータとしても活動しているヨコヤマさんは、長年の友人で、医療や治療薬の問題で日常的に助けてもらっている。私ばかりか、弟猫までお世話になろうとは。私はすぐ、ハヤシ先生に「注射薬はどうでしょうか?」と相談した。ハヤシ先生は、その場で薬局に電話して在庫を確認し、注射薬なら入手可能なことを確認した。問題は、猫に対して日常的に注射で投与した前例はないことだったが、ハヤシ先生と私は、投与量や効果の確認方法について慎重に議論した上、弟猫に毎日、朝と晩の注射を行うことを決断した。  意外なことに、弟猫は注射という新しい習慣を喜んで受け入れた。飲み薬と違って、注射はすぐに効果が現れる。「『おちゅうしゃ』は自分のためになる」と理解したらしい弟猫は、私が「おちゅうしゃするよ」と言うと、トコトコと足元にやってくるようになった。お姉ちゃん猫も近くにやって来て、弟猫が私の膝の上に抱き上げられて注射されるのを見守り、解放された弟猫の頭をなめてやる。生活の中の新しい歓びが、また一つ増えた。  テンヤワンヤの日々の中で、私は「スターンさんの話を売り込む機会をなくしてしまったかなあ」と溜息をついていた。埋もれさせたくない。ぜひ記事化したい。日本の多くの人に読んでほしい。でも、どこの雑誌も、雑誌用紙の入手難で維持が困難になったり、話題は東日本大震災一色になっていたりだった。東日本大震災の取材に関しては、ライターの需要はあった。しかし車椅子の、しかも自動車の運転ができない私には、東日本大震災そのものの取材は非常に困難であった。私は  「私が努力しても、取材で貴重な証言を得ても、結局は何にもならないのだろうか? 私はライターとしては復活できない運命にあるのだろうか?」 と意気消沈した。  さらに、政府系機関から時折受けていた音声起こしの仕事も、被災地に回ってしまった。かつて、障害者の私は「仕事を得ることが難しい」という状況への配慮を受け、やや優先的にその仕事を回してもらえていた。震災後は同じ理由で、その仕事は被災地に回ってしまった。文句は言えない。  それにしても、障害者の友人たちからの相談電話は、一向に減る気配がない。この問題を解決しないと、私は気持ちよく仕事に向かうことができない。では、そのために自分にできることは何だろうか? 書いて、数多くの読者さんに読んでいただくことではないだろうか? どうも私には、「書く」以外の能力はありそうにない。それにしても、一般紙・一般誌での活動実績が皆無に近い私に、何ができるだろうか?   模索が始まった。「自分にできるわけがない」とは、不思議に考えなかった。スターンさんとの出会いが、私を変えていたからだと思う。 ★弟猫、『アンパンマンのマーチ』に出会う  東日本大震災後、日本全国の数多くの合唱愛好家たちが、被災地の人々を励ます目的で合唱を録画し、ユーチューブなどの動画サイトで発表していた。ある日、どうにも仕事の意欲が湧かず、ユーチューブで音楽を聞いていた私は、大阪の高校生の素晴らしい合唱を見つけた。曲は『アンパンマンのマーチ』だという。幼少時に「アンパンマン」で育っておらず、一九八四年に実家を離れた後はテレビを所有していなかった私は、このときに初めて『アンパンマンのマーチ』を聴くことになった。  「へえ、こんな歌なんだ。いい歌だなあ」 と思いながら耳を傾けていると、膝の上で寝ていた弟猫がムクリと起き上がり、端座した。「居ずまいを正す」という感じだった。弟猫は妙に真剣な顔で、『アンパンマンのマーチ』に聴き入っていた。  そのうちに弟猫は、私が「アンパンマン聴くよー!」と声をかけると、飛んできて膝の上に座るようになった。そして私たちは一緒に、パソコンから流れる『アンパンマンのマーチ』に耳を傾けた。一回で飽きたらないと、弟猫は私の顔を見て「もう一回」と促す。時には、二回三回と続けて『アンパンマンのマーチ』を聴く日もあった。  私が入浴するとき、浴槽の上に置いた蓋の上には、たいてい弟猫がやってきていた。暖かくて居心地がよいからだ。東日本大震災後、私は歌を歌ってやるようになった。弟猫が好む範囲は広かった。『アンパンマンのマーチ』に『スカボロ・フェア』。スタジオ・ジブリのアニメの主題曲のいくつか。でもなぜか「しまじろう」は苦手だった。『手と手をつないで』、お母さんは良い歌だと思うんだけどなあ……? 猫だから、虎のしまじろうは怖いのかなあ? まさか。  その様子を見ていたお姉ちゃん猫が黙っているわけはない。私はお姉ちゃん猫にも、何か琴線に触れる曲を用意したいと思った。とはいえ、選曲するのは私だから、私の知っている曲というバイアスがかかってしまう。試行錯誤の末、お姉ちゃん猫はどうもジブリソングに良い反応を示すということがわかった。  しかしお姉ちゃん猫も、本当は『アンパンマンのマーチ』が大好きなようだ。動物病院に入院して処置を受けているとき、不機嫌に怒りを示すお姉ちゃん猫に、動物病院のスタッフの皆さんが『アンパンマンのマーチ』を歌うと、お姉ちゃん猫の怒りのトーンは下がるのだそうだ。  なお二〇一二年夏、公開されたばかりの映画『おおかみこどもの雨と雪』のサントラを聴いていた私は、主題曲『おかあさんの唄』を聞いていた時、スピーカーにお姉ちゃん猫が顔を激しく擦り付けているのに気づいた。この曲をいたく気に入ったお姉ちゃん猫は、スピーカーの中にいるであろう歌手に近づこうと、そういう行動を取っていたようである。この『おかあさんの唄』も、私の愛唱歌となった。お姉ちゃん猫が言うことを聞いてくれず困る時、私は  「『まだ見ぬあなた(『おかあさんの唄』の出だし)』歌ってあげるよ」と言って歌いはじめ、お姉ちゃん猫の機嫌をとるのである。  お姉ちゃん猫と弟猫と私の、楽しい表情と歌声があふれる住まいに、穏やかで幸せな毎日が流れていった。テーマ音楽は、一家全員が好きな『アンパンマンのマーチ』。そうだ、うれしいんだ、生きる喜び……♪ ★北海道・浦河町へ  〜ライターとしての復活  二〇一一年五月、私は不思議な噂を耳にした。東日本大震災では、北海道も津波に襲われた。北海道浦河町にも、二・九メートルの津波が押し寄せた。防潮堤は高さ四メートルだったので、町は津波から守られたものの、港湾は津波で破壊された。この時、浦河町の人々は地域に住む精神障害者たちを津波から安全に避難させようとした。結果として、町民全員の安全が確保されたという。  反射的に「なんと素晴らしい」と思ったが、次の瞬間「なんだか出来すぎた話だなあ」と思った。真相はどういうことなのだろうか?  少し調べてみると、町民たちの思いやりにもとづく美談というわけではないということが、判明した。浦河町には三〇年の歴史を持つ精神障害者グループホームがあり、その障害者たちが避難訓練を繰り返しているうちに、避難ルートや標識が整備されてきたのだという。それにしても不可解な話ではある。妄想幻覚の強い統合失調症患者を含む精神障害者たちに、危機を認識させ、危機に際して取るべき行動を伝達することは容易ではないだろう。避難ルートや標識の整備にあたっては、町役場の協力も必須であるはずだ。  二〇一一年八月、私は浦河町を訪れた。たそして、その精神障害者グループホームの人々の活動を取材した。さらに、浦河町役場でも取材を行った。久しぶりの、日本語でのインタビュー。私は、ライターとしての自分が復活しつつあるのを感じた。障害者になった三輪佳子に引きずられ、ライター・みわよしこも殺されかけ潰されかけてはいたけれど、まだ生きていたようだ。  取材からは、驚くべき事実が判明した。きっかけを作ったのは、不安の非常に強い精神障害者の一人だった。精神障害者グループホームの管理人を務めていた彼女は、津波や地震について考えていると夜も安心して眠れず、睡眠不足から病状を悪化させてしまう。彼女は仲間たちともども、不安を鎮め、夜、充分に休めるようにするためにはどうすればよいかを考えた。たどりついた結論は、「地震や津波のときにどうすればよいかを考えて訓練しておく」であった。ついで彼女たちは、浦河町へと働きかけた。浦河町は、避難ルートや標識の整備を行う方針を固めた。問題は、精神障害者たち全員への危機と対処行動の伝達であり、実際の訓練である。伝達や訓練には、国立リハビリテーションセンター研究所が、研究所のプロジェクトとして取り組んだ。この成果として、東日本大震災以前に、すでに避難ルートや標識が整備されていた。また、精神障害者たちは何回も避難訓練を繰り返していた。東日本大震災は、これらの備えが有効であったことを確認する機会ともなった。  私は、この話をまとめて記事企画を立て、「ダイヤモンド・オンライン」編集部に持ち込んだ。公開された記事は好評を博した。もちろん、私には久々の原稿料収入がもたらされた。取材経費の全額にも満たない原稿料収入だったが、私は久々の記事、しかもビジネス媒体では初めての記事のヒットを心から喜んだ。きっと私は、ライターとして復活を果たせるだろう。その確信を持つことができた。  前後して、岩波書店が発行している雑誌「科学」で、スターンさんとAAASの取り組みを記事化することができた。私はスターンさんたちの好意に報いることができたことに、心からほっとした。  二〇一一年九月、私は国立北関東マンモス大学を単位取得退学した。退学した後は、秋葉原から北関東方面に向かう路線に、一度も乗っていない。二〇一四年現在も、私は秋葉原でその路線の駅を見ると、そこから先に希望があると思っていたかつての自分の愚かさを責めてしまう。そして黙って涙を流す。 ★連載「生活保護のリアル」開始  この時期、私は生活保護に関する記事を、いくつかのビジネス媒体に持ち込んでは断られていた。生活保護に関しては、とかく誤解が多い。批判し、非難するのは、その人の自由だ。しかしせめて、誤解ではなく正確な理解にもとづいて行ってほしいと思った。  私は、ビジネス媒体や女性週刊誌で、生活保護について書きたいと考えていた。ビジネスパーソンに居酒屋談義のネタにしてもらいたい。美容院で女性週刊誌を手に取る女性たちに、井戸端会議のネタにしてもらいたい。そんなところから世の中を変えていくことは、不可能ではないだろう。充分に現実化する可能性があるだろう。  悩んだ結果、ビジネス媒体にしぼることにした。ビジネス媒体で記事を読んだ会社員は、記事の内容や感想を同僚や上司や部下に話す可能性がある。家庭では、夫にも妻にも子どもにも話すかもしれない。同じ内容を女性週刊誌に書いた場合、そこまでの広がりは期待できない。最後に残る紙媒体として期待されている女性週刊誌には、どの出版社も優秀な編集者を配置し、優秀なライターが集まっている。しかし媒体の性格による制約は如何ともしがたい。  浦河町の精神障害者たちの記事が公開されたあと、私はダイヤモンド・オンラインの編集者であるハヤシさんに、「生活保護について、これまでなかった切り口で書かせていただけないでしょうか?」と、身の回りの実例や世間の理解、世間に欠けていると思われるものを示してお願いした。ハヤシさんは、即座に了解してくれた。  私は本格的な予備取材を開始した。直接の友人は取材対象にしないことを基本的なポリシーとしていた当時の私は、生活保護を利用している友人たちから聞いた話、彼ら彼女らの生活ぶりを記事化するわけにはいかなかった。半生記や生活そのものに触れる話を書くのであれば、直接の友人ではない生活保護利用者に接触し、話を聞く必要があった。  障害者ではない生活保護利用者との接触は、その時が初めてであった。そこには、私の知らなかった世界があった。生活保護利用者たちに「生活保護だから」で括れるものは何一つない。生活保護を利用するにあたっての唯一の要件は、「資産が非常に少なく、収入が生活保護基準以下」だ。その唯一の共通点を除いて、生活保護利用者たちは、人となりも、歩んできた人生も、生活保護の利用に至った経緯も、まったく多様であった。ただ、生活保護の利用を余儀なくされるにあたっては、ほんの少し、世の中平均に比べて不運が多かったかもしれない。経済的自立を維持するための努力の方向性が、焦りから、ほんの少しズレてしまって逆効果になったかもしれない。か、あるいは、努力によって自分の人生を切り開いていくための前提となることがらが、ほんの少し、世の中の標準に比べて不足していたかもしれない。いずれにしても、生活保護利用者たちと、そうではない人々との違いは、世の中で思われているほど大きくはなさそうだ……。  私は「心のバリアフリー」というべきものを実感しはじめていた。一般的に「自分の努力によって成功をつかむ」は美徳とされているけれども、結果を左右しているのは本人の心がけや努力ではなく、たぶん、小さな運不運の積み重ねのようなものだ。たとえば「道路を歩行していて石につまづいて転倒する」ことは、二足歩行していれば誰にでも同じように起こりうるトラブルだ。でもその時、目の前に一万円入りのサイフが落ちているのか?顔の下に犬の大便が落ちているのか? あるいは特別な幸運も不運もなく、アスファルト舗装を割って咲いている花に気づくのか?   トラブルの結果は、偶然のめぐり合わせによって、幸運となったり不運となったり、いずれともいえない日常の出来事の一つとなったりする。ある人が経済的に恵まれた人生を送るか、生活保護を利用することになるか、低空飛行ではあるけれども生活保護にまでは至らない人生を送るのかは、「転んだ時に、そこに何があるのか」と同じような違いなのではないだろうか? 私は、そんなふうに感じるようになっていた。生活保護を利用している人々への取材は、自己責任論によって自責することをやめられなかった私を、少しずつ解放していった。  問題は、記事化の時期と形態だった。当初、ハヤシさんと私は、二〇一一年中に単発記事としての掲載を考えていた。ところがハヤシさんが別の記事の対応で多忙になったり、二〇一二年二月、私が再びAAAS年次大会のためにカナダに行ったりで、なかなか記事化できないまま題材が蓄積していった。ある日、ハヤシさんは、私が提示した大量の予備取材の内容を前に「どうしよう?」と頭を抱え、「ダイヤモンド・オンライン」編集長に相談したそうだ。すると編集長は「だったら連載にしては?」と答えたということだ。  連載記事企画「生活保護のリアル」は、こうして誕生した。ハヤシさんにその話を聞いた私は、嬉しいというより、全身が引き締まる思いだった。多数の読者を持つ「ダイヤモンド・オンライン」での連載。私にできるだろうか? やるしかないのは間違いないのだけれども……。その後も、さまざまなアクシデントがあり、連載開始時期は遅れていった。そのうちに、お笑い芸人・河本準一氏の母親の生活保護利用が大きく報道されはじめた。二〇一二年四月のことであった。  連載「生活保護のリアル」は、二〇一二年六月下旬、河本氏の謝罪会見の翌日に開始されるめぐり合わせとなった。第一回は二日間で二〇万ものアクセスを集め、「ダイヤモンド・オンライン」の月間アクセス数ランキングの一位となった。二〇一二年八月には、日本評論社から書籍化されることも決まった。日本評論社と私をつないだのは、日本数学会の「ジャーナリスト・イン・レジデンス」を通じて知り合った編集者のカメイさんとイイノさんだった。日本評論社で数多くの定評ある数学書・数学誌を送り出しつづけている二人が、同社で経済学書を編集してきたモリヤさんに私を紹介した結果、書籍『生活保護リアル』が誕生することとなった。ちなみにカメイさんは定年退職後の現在、自分自身の出版社を設立して数学書の編集を続けている。それだけではなく、長年培ってきた知識・経験・数学界との人脈を活かして、さまざまなコンテンツを世に送り出しつづけている。年齢とともに、さまざまな意味で豊かになっていく人生。私もそんなふうに年齢を重ねていきたい。  いつの間にか、私の毎日のテーマは、「いかに今日や明日を生き延びるか」ではなく「今後の人生をどう発展させていくか」へと変わっていた。障害者になって以後の私は、いつしか希望も展望も失ってしまっていた。でも私は再び、希望を持ち展望を考え、その実現に向かって小さくとも歩みつづける毎日を取り戻すことができたようだ……。  私の「障害サバイバル」第一部は、たぶん、連載「生活保護のリアル」がスタートすると同時に終わったのだと思う。もちろん、ヘルパー派遣を受けること・新しい補装具の交付を適切なタイミングで受けること・障害年金が必要ならば受給可能な状況を維持することなど「障害者として生きる」にかかわるあらゆることがらは、引きつづき、私にとって現在進行中の重大な課題ではある。でも、今の私にとって重要なのは、ライターとしての向上であり、出版不況の中でキャリアを発展させていくことだ。いわば、職業人としてのサバイバル。職業人なら当然の努力や競争が、私にとっても課題であるというだけのことだ。  さらに二〇一四年四月、私は研究の世界にも戻ってきた。生活保護に関する取材を続け、多数の記事を発表していく中で、明確な根拠のもと、数量ベースで説得力のある政策提案を行う人々が少なすぎることに気づいたからだ。たとえば、「生活保護基準を引き下げれば、生活保護利用者たちは危機感から就労するようになる」という俗説があるけれども、生活保護基準と就労インセンティブの間にどういう関係があるのかは、実のところまったくわかっていない。  生活保護の研究で博士号を取得し、政策提案を行えるようになりたいと考えた私は、立命館大学・大学院先端総合学術研究科に編入学した。もちろん、課題は山積している。著述業という職業を持つ研究者として、時間その他の資源をやりくりして研究を続けていくこと。研究で結果を出すための努力をすること。「障害を抱えての生活」という研究以前の問題に悩まされることなく、仕事そのもの、研究そのもので悩むこと。私が長い間、望んでもかなわなかったそれらの夢は、今、現実のものとなっている。私は日々、多忙に目を回し、時には綱渡りのような時間のやりくりにドキドキハラハラしながら、仕事と研究に向き合っている。机の上に積まれた参考文献の中には、モリヤさんが編集した経済学書や、カメイさんやモリヤさんが関わって作られた数学書もある。まだ会ったこともない編集者や著者の方々にも書籍の中でお付き合いいただきながら、私はボチボチと前進を続けている。  二〇〇五年秋から二〇一二年八月までの七年にわたった、私の「障害サバイバル」第一部。私は時間と労力を浪費しただけだったのか。それとも、今後の自分の人生に、さらに今後の社会に活かすことのできる貴重な何かを得たのか。いずれであるのかは、私のこれからの人生が明らかにするであろう。 ―完―